天から降り注ぐ柔らかな光が、舗装された地面と人々を覆っている。
 噴水の台座には一人の浮浪者が腰かけているが、行き交う人々は気に留めもしない。浮浪者も彼らと同じように、柔らかな光に包まれている。

 ぼろを纏った浮浪者が立ち上がった。砂灰色のぼろが全身を覆い、顔は灰色の影になっている。
 浮浪者はくたびれた顔の剣士に頭を向けた。行き交う人々のように剣士は気付かない。
 浮浪者は一歩進み出た。裸足だったので、足音は舗装された道路に響かなかった。

 ぼろを纏った浮浪者は、まるで伝道者のように手を上げた。
 いつの間にか、剣士は噴水の影に腰を下ろしていた。浮浪者は彼に向かって優雅にお辞儀をすると、色のほとんどない唇を開いた。
 剣士は磨き上げられた抜き身の剣の切っ先を地面につけると円を描いた。鋭い金属音が始まりの合図のように鳴った。


 ぼろを纏った浮浪者は、澄んだ声で言った。
「私は去った。私は去った、この仮初めの大地から。私は去った」

 浮浪者は言った。
「私は登った。私は登った、この仮初めの大地から、至福の天へ。より良い新天地を求めて。私は登った」

 浮浪者は言った。
「私は登った。私は登った、果てのないように思われる階段を。先の見えない階段を、果ての見えるまで。永久にも思われる時が流れた」

 浮浪者は続けた。
「私は見た。私は見た、果てのないように思われる階段の果てを。階段の果てに辿り着いた時、私はすっかり朽ちていた」

 剣士が言った。
「朽ちた体では、そこから先にどうやって行けようか?」

 浮浪者は言った。
「私は佇んでいた。私は佇んでいた、朽ち果てた体で。空に包まれた階段の果てで私は佇んでいた。
 永久にも思われる時が流れた。
 やがて光が私を覆った。地上に降り注いでいるのと同じ光が、私を覆った。そして光が私の新たな肉体を造った。私の瞳は空を透かした」

 浮浪者はぼろを払いのけた。天から降り注ぐ光と同じ色の、天上者の体が露わになった。その体を覆う紗ですらも光を放っていた。その瞳は空を透かした色 だった。
 剣士が息を呑んだ。片手に握られていた剣が、音を立てて地面に倒れた。

 天上者は言った。
「こうして私は得た。新天地に辿り着くための体を、私は得た」

 剣士が言った。
「では何故ここにいる?光の体と空の瞳を、手に入れながら何故ここにいる?」

 天上者は言った。
「私は登った。私はさらに登った。
 やがて、新天地が私の目の前に現れた。私の求めてやまなかった新天地が、現れた。
 私は走った。足元を気にせずに。仮初めの大地が私を引き摺り下ろそうとしているとも知らずに、私は走った。
 そして私は足を踏み外した。仮初めの大地が私を引き摺り下ろした。
 私は落ちた。私は落ち続けた。永久にも思われる時が流れた」

 天上者は続けた。
「私は落ちてしまった。ついに仮初めの大地まで、私は落ちてしまった」


 剣士が言った。
「哀れな―」
 天上者は項垂れた。剣士は地面に倒れた剣を拾った。

 突如として、天上者の瞳が曇った。天が雲に覆われた。舗装された地面と人々を覆っていた光は、瞬時にして消え去った。
 天上者は悲鳴を上げた。光の遮られたその体は、朽ち果てた人の姿になった。項垂れた首がぐらぐらと揺れた。

 剣士は全てを悟った。彼は言った。
「何と哀れな。光の体は、光が隠されてしまえば保つことができない。何と哀れな」

 天上者は何かを言おうとしているようだったが、かつては口だった洞からは空気しか漏れなかった。

 雨が降り出した。人々が足早に歩いて行く。
 剣士は立ち上がり、揺れる天上者の体を受け止め、そっと地面に横たえた。
 雨は朽ちた人間の残骸を洗い流していった。後には光の色をした骨だけが残った。剣士は束の間頬を緩めた。
 やがて彼は立ち去った。


 雨が止んだ。雲が晴れ、仮初めの大地に柔らかな光が降り注いだ。
 骨が輝きを増した。柔らかな光が骨を包み、ゆっくりと人の形をとった。
 天上者は起き上がった。半分覗いた瞳が、青空を透かした。


 雨宿りをしていた人々が、再び通りに溢れた。彼らは舗装された地面を歩いていった。
 天上者は傍に落ちていたぼろを拾って体を覆い、浮浪者の姿になった。

 浮浪者は、かつて座っていた噴水の台座に再び腰をかけた。


..2005.10.16. 輝扇碧
新天地