![]() 僕はギヨームと一緒に彼のアトリエにこもる羽目になった。作業をしている間は四六時中モデルと見比べるので、僕を帰らせず、傍に置きたがるのだ。 アトリエは物が多い割には片付いていた。ギヨームが家を任せている家政婦が時々やってきては片付けていくのだ。彼女は今日もアトリエにやってきた。僕と 同じ二十四歳で、ギヨームと親子だというには年が近すぎるが、兄妹だというには離れすぎていた。 彼女が後ろから入ってきて、僕に視線を向けずに―裸で動けずにいる僕に気を使ってくれているのだろう、あるいは恥ずかしいだけかもしれない―食事を入れ たバスケットを、作業台から少し離れた、石の破片の飛んでこない所にある机の上に置いても、ギヨームは気づいた様子すら見せなかった。質か悪くて割れやす い大理石から、僕のトルソの大まかな形を削りだしていたのだ。 やがて作業が一段落して、額にかかった巻き毛を払うと、彼は始めて家政婦の方を向いて、「やあ」と声をかけた。「お前はもう食べたのかい?」 家政婦は黙ったまま頷くと、机の脇にある椅子に座ったので、僕からもよくその姿が見えた。彼女は整った顔立ちをしてはいたが、顔の右半分にある大きな傷 跡が全てを台無しにしていた。それはまるで蛇のように、白い肌の上をうねっていて、なぜそうなったのか、僕はまだ知らなかった。 僕はローブを羽織り、ギヨームと二人で食事をした。食事を終えた後、彼が無言でバスケットを家政婦の方に押しやると、彼女はそれを受け取って家に戻る。 静かで穏やかなひとときだった。 「君は画家をやっているんだったな」あるとき、ギヨームがふと言った。「なのに、どうして私のモデルを?」 「スランプになってしまって、その気分転換です」僕は嘘をついた。この中年に差し掛かり始めた彫刻家に、同じ芸術家としても恥部を晒したくなかった―本当 は、パトロンがいないので経済的に苦しくなっただけだった。 ギヨームは僕の嘘を見抜いたらしく、薄く笑った。それから僕の顎を片手でつかみ、やや上を向かせた。「嘘をついてもいいが、そのときに下を向く癖を直し なさい。モデルの仕事は動かずにいることだろう?」 しばらくしてから、彼は唐突に手を止めた。「今日はもう終わりだ。半日以上立ちっぱなしで、君も疲れたことだろう?私は手がくたくただ」 僕は手渡されたローブを断り、服を着てから、白っぽく汚れたソファに身を投げ出し、ギヨームが彼の手をマッサージするのを見ていたが、目蓋が重くなって きた。今日こそは帰ろうと思っていたのに。 僕をモデルにした石像は、ギヨームの手によってその裸体を顕わにしつつあったが、アトリエの中で少し浮いて見えた―他に人物をモチーフにした像が見当た らなかったのだ。そのことを言うと、彼は楽しげに答えた。 「だから四六時中モデルが必要なんだよ。静物と違って、血の通ったモチーフを使っているわけだから」 そうこうしているうちに、家政婦がいつものように食事を持ってきた。 ギヨームは僕と石像の体の輪郭を交互になぞっていたが、空いている方の手で彼女を手招いた。「ご覧。ようやく全体が見えてきた」 家政婦はおずおずと僕と像の間にやってきくると、像を上から下まで眺めた。 「触ってみなさい。滑らかだから」ギヨームが彼女の手を取って、像に触れさせた。「三流品の大理石とは思えないだろう?」 「冷たくて、滑らかで、きれい」家政婦が呟いた。そのまま指を下ろしていき、まだ粗い鑢で削っただけのトルソの下で止めた。「私もこうであれば・・・」 ギヨームの顔から微笑が消えた。僕は家政婦の横顔を見た。肌は荒れていて、肉の盛り上がった傷跡は醜かった。それからギヨームの顔を見ると、言葉を失っ て立ちすくんでいたが、しばらくしてから掠れた声でこう言った。 「これは・・・ただの石だよ」 ギヨームと彼の家政婦の間に、会話はなくなった―尤も、僕は二人が会話しているのを数回も見たことがなかった。それでも今まで通り、何の差し支えもな かった。家政婦は何をすべきか心得ていて、実際それはギヨームの求めていることに、ぴたりと合っていたからだ。 二人の間に流れている空気は、僕が今までに感じたことのないもので、そこに僕の入る隙間はないように思えた。それが羨ましくもあり、悔しかった。 像は次第に完成へと近づいていった。ギヨームはできる限り、僕を忠実に再現しようとしていた。彼は一層僕が動かずにいることを求めた。一度目元を覗き込 まれたとき、反射的に目を合わせただけで、「じっとしていなさい」と苛立たしげな声で叱られた。 ギヨームがその日の作業を終えた後、僕は像の顔を見て驚きの声を上げた。目を縁取る睫毛こそなかったが、くっきりとした眉毛が細かに彫られていたのだ。 喧嘩で負った傷のせいで、途中で切れ目が入っている左眉は僕そのものだった。 あるとき、僕はギヨームに誘われて近くの公園まで行った。彼は絵筆と、白く塗られたキャンバスを用意していた。 「出てきてよかったんですか?彼女に何も言わずに」僕はイーゼルを立てかけている彼に尋ねた。今朝アトリエに入ってから、今こうして公園に出てくるまでの 間に、家政婦の姿を一度も見かけていなかったのが気になりだしたのだ。 ギヨームは、伸びた草の間に埋まるようにして、地面に仰向けになった。「体調を崩しているようだったから、暇をやった。・・・ところで、君は画家をやっ ていたんだったな。何か描くかい?そう思って持ってきたのだが」 この喜ばしい申し出を、僕はありがたく受け取った。久し振りに絵の具の臭いを嗅いだからか、急に創作意欲が湧いてきた。花を描こうと決めた。完成した ら、体調を崩している家政婦にでも渡してやろうかと思った―傷のせいで、大した外出もできやしないだろうから。 ギヨームの方を見ると、目が合った。彼は微笑んで、「続けて」と言った。手にはスケッチブックを持っていて、どうやら絵を描く僕の姿を描いているよう だった。 「僕を描いているんですか?」 「服を着ている君を、アトリエで彫ることも、ましてや描くこともまずない。この機会に、一枚ぐらい描いておこうと思ってね」 彼は紙の上で鉛筆を滑らせながら言った。その心地よい音を聞きながら絵筆を動かすうちに、僕は早くパトロンを探さなければいけないと思い始めた。 僕は自分のアトリエで絵を描いていた。家政婦に渡そうと考えている絵を仕上げていたのだ。 二日前にそのことをギヨームに言ったとき、彼は笑顔で、「妬けるな」と言った。「では、完成したら、二人で見舞いに行こう」 完成した絵を携えて、数日振りに僕はギヨームのアトリエに行ったが、そこに彼の姿はなかった。像は最後に見たときのまま、少しも進展していなかった(無 理もない、モデルがいなかったのだから)。床には石の破片が散らばり、うっすらと埃が積もっていた。掃除された形跡はなかった。 不審に思って、今さっき入ってきたばかりのアトリエのドアを再び開けたとき、ちょうどギヨームが入ってくるところだった。黒いスーツを着ていて、結ばれ ていない黒のネクタイが、だらしなく開いたシャツの襟元からぶら下がっている。巻き毛はばらばらに乱れ、泣き腫らした目の下には隈ができていた。 「ああ、君・・・」彼は憔悴しきった様子でドアの枠にすがりついた。 僕は彼の体を両腕で支えた。「一体どうしたんですか?」 「あの子が死んだ。これから家に行くところだ。どうか君も私と一緒に、お悔やみをの言葉を」彼は僕の手から逃れるように、よろめきながらアトリエの中に入 り、室内を引っ掻き回し始めた。 「・・・喪服を着ていないんです」長い沈黙の後、ようやく言葉を発せられるほどに、衝撃から回復した僕は震える声で言った。「それでもいいですか?」 「ついてきなさい。構わないから」ギヨームはそう言うと、慌しく道具を鞄に詰めた。石膏の粉とスケッチブック、それに粘土―彼が何のためにそれらを必要と しているのか、分からなかった。 「ああ、どうして、ああ・・・」ギヨームはほとんど泣いていた。僕は気の利いた言葉をかけてやることもできずに立ち尽くしていた。もとより、彼よりも一回 り以上年下の僕に、そのような言葉など思いつくはずもなかったのだ。 家政婦は、母親と妹の三人で小さな貸家に住んでいたようだった。狭い部屋のドアをノックもせずに開けたとき、ギヨームは少なくともさっきよりは落ち着い て見えたが、唇を血が滲むほど噛み締めているのが痛々しかった。僕は影のように、彼の後ろにつき従っていた。 家政婦の母親と妹は、ベッドの周りで泣いていた。医者の姿は既になかった。 「奥さん、お嬢さん。ああ、なんと言えばいいのか・・・!」 僕は黙って立ちながら、彼らの交わす会話をぼんやりと聞いていた。彼女は風邪をこじらせたのがもとで、肺炎になったとの事だった。 母親の方が、ようやく僕に気付いたらしく、「お掛けになってくださいな」と言った。 ギヨームが、思い出したように僕を紹介した。「私のモデルだ。画家もやっている。彼女を見舞うために絵を・・・」途中で嗚咽が混じった。彼は辛うじて笑 みのような表情を作った。「顔を・・・。娘さんの顔を、採らせてください」 絵を家政婦の妹に手渡しながらその言葉を耳にした僕は、ようやく彼が持ってきた道具の用途を悟った。 ギヨームは全員が見守る中で、すばやく粘土を死体の顔にかぶせて型をとり、水で溶いた石膏を流し込んだ。女二人が死に化粧を施している間、彼は僕に家政 婦の死に顔のスケッチをさせた。最初は断ったのだが、彼の哀願とも取れる口調に負けた。 「頼む、私の代わりにあの子の顔を・・・。ああ、私はもう・・・」彼はそう言ったきり、椅子に深く座り、顔を両手で覆っていた。 家政婦の顔は、ここ数日の間に随分と痩せこけていた。それでも顔色が蒼白なせいか、傷跡もさほど目立たず、まるで彫刻のようだった。僕は初めて彼女の顔 を美しいと思った。 石膏が固まったのと死に化粧が終わったのとは、ほぼ同時だった。ギヨームは受け取り手がいなくなってしまった、僅かな給料が入った封筒を、家政婦の母親 に渡した。「本当に、悔やんでも悔やみきれない」 妹のほうはといえば、僕が描いた絵を抱えたまま、泣き腫らした目で封筒を見ていた。 僕たちが帰るとき、二人の女は玄関まで見送りにきて、深々と頭を下げた。 アトリエに戻ってから、ギヨームはスーツを脱いで作業着に着替えた。僕は服を脱がず、すぐに作業に取り掛かった。僕が鞄から取り出したスケッチを周囲に 広げている間、ギヨームは石膏型から注意深く粘土を取り除いた。 「ご覧」長い吐息の後、彼は満足げな響きの声で言った。「上手く採れていた」 それから僕は、彼が石膏のデス・マスクから、かけられる限りの時間をかけて、傷跡をサンドペーパーで削り取るのを見つめていた。 その日の作業が終わったとき、アトリエの中は暗くなりかけていたので、僕が灯りをつけた。デス・マスクは傷一つない、若い女の顔をしていた。やや尖った 顎、肉感的な高い鼻。目は夢でも見ているかのように閉じられ、薄い唇が僅かに緩んでいる。ギヨームがそれを両手でそっと持ち上げ、奥の作業台に置いた。 アトリエから自分の家に帰る道の途中で、僕はその日初めて泣いた。 翌日、僕が軽食を持ってアトリエに入ると、奥の作業台では既にギヨームが作業を始めていた。新しい石材は上質な大理石で、家政婦の肌の色にそっくりだっ た。 「傍にいてくれ」彼は手を止めずに言った。「私が間違った方向に彫り進めないように、見ていて欲しい。彼女の顔を知っている君に」 最初の数日間、ギヨームは食事とその他必要最低限のことをする以外の全ての時間を作業に費やした。僕も食事を作るとき以外はアトリエにこもった。 さらに数日経つと、しばしば食事すらも忘れて作業に没頭するようになった。 作品ができ上がったのは、ちょうど満月の夜のことだった。僕は腰を上げて、作品全体を眺めているギヨームに、彼の作った胸像には非の打ち所がないことを 告げた。 「だろうな。君がそう言うと思っていたよ」ギヨームは疲れきっていたが、満足げな表情を浮かべていた。「私も、もうこれ以上手の加えようがない」 僕達は互いの肩を叩いて、この喜びを分かち合った。胸像は、人を彫り慣れていない彫刻家が彫ったとは思えないほどの、素晴らしいできばえだった。やや 尖った顎、肉感的な高い鼻。目は夢でも見ているかのように閉じられ、薄い唇が僅かに緩んでいる。死んだ家政婦の顔から型を取ったにもかかわらず、僕にはこ の像が生命力に満ち溢れているように見えた。顔の傷跡こそなかったが、それはまさしくあの家政婦の顔だった。 「触ってみなさい」ギヨームは僕に言った。「君もこの像を作った一員なのだから」 僕はしばらく躊躇っていたが、彼に手首をつかまれたので、そっと指の背で冷たい胸像に触れた。上質の大理石の、すべすべとした感触があった。僕は像から 離れ、白く汚れたソファに体を沈めた。 「・・・ご覧」ギヨームが呟いた。「ご覧。お前はなんと滑らかなことだろう・・・」家政婦の名前を言ったようだったが、声があまりにも低かったので、聞き 取ることができなかった。悲しい響きの声だった。 僕の裸身を彫った像は、ついに完成することがなかった。ギヨームが芸術家であることを辞めてしまったのだ。 像ができてから数日後、モデルの仕事を再開するつもりで、僕はギヨームのアトリエを訪れた。足を踏み入れた途端、驚愕を隠し切れなかった。彼の作品は、 二つの像(家政婦の胸像と、僕の未完の像)を覗き、全て姿を消していた。 「すまないな」ギヨームは悪びれた様子もなく、真新しいソファに座っていた。「もう創作活動をやる気が尽き果ててしまった。彫刻家を辞めて、パトロンにな るよ」 僕は何も言うことができなかった。 「呆けるのはよしなさい。君のパトロンになろうと思ってね―絵をなかなか描こうとしない理由は、それだろう?」 「・・・作品を、壊してしまったんですか?」 「いや、売った」ギヨームは立ち上がり、僕の肩を抱いて言った。「もういいんだ。私は彫刻家として、いや、芸術家としての仕事を全うした。・・・満ち足り た気分だよ」 僕は彼の申し出をありがたく受け取った。彼は嬉しそうだった。アトリエを使わせてもらうことになった。僕も彼と関わりを持ち続けていられるのが、嬉し かった。 ギヨームは、家政婦の胸像を、彼女の母親と妹に贈った。 「これがこの子の写真代わりですわ。遺影も撮れなかったものですから」母親は声を震わせて、喜びを顕わにしていた。 僕はギヨームのアトリエで絵を描き始めた。しばらくすると、自分の家を売って、彼の家に荷物を移した。彼は喜んで受け入れてくれた。絵を描いている僕の 姿を、彼はじっと見つめていることがあったが、それだけだった。絵も彫刻もやらなかった。 あるとき、僕はギヨームを誘って近くの公園に行った。かつて彼に誘われた場所は、季節が同じだということもあり、以前とさほど変わっていなかった。草は 伸び茂り、あちこちで小さな花が咲いていた。 ギヨームは僕の後ろで草に埋もれるように寝転がって本を読み、僕はキャンバスをイーゼルに立てかけて絵を描いた。しばらくすると、本を閉じる音が聞こえ た。 「前々から気になっていたんです」僕は振り向かずに行った。「彼女のデス・マスクはどこに?」 返事の代わりに、紙の上を鉛筆が滑る、あの心地よい音が聞こえた。僕は振り向いた。ギヨームと目が合った。 彼は微笑んで、「続けて」と言った。手にはいつの間にかスケッチブックを持っていて、どうやら絵を描く僕の姿を描いているようだった。 2006.11.08 輝扇碧
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