![]() その事故が起きたとき、ちょうどおれは今にも死にそうな父のためにピエタを半年以上かけて描いている途中だった。 二番目の妻、マリア=イザベル(おれと親子ほど年が離れている彼女のことをマリベルと呼ばないのは、おそらくおれだけだった)と一緒に、普段父が寝てい るベッドを窓際まで移動させようと運んでいるとき、不意に外の木に枯葉が増えていることに気づき、彼女に声をかけたのだった。「ご覧よ、もうすぐ冬だな」 それで彼女は外に注意を向け、もともと無理な持ち方をしていたベッドの片端をおれの手の上に落としてしまった。 あっと思った瞬間には全てが遅く、おれは叫び声を上げていた。あまりの痛みに、どこの骨が折れたのか、あるいは砕けたのかすら分からなかった。 成人したばかりで、まだ幼さの残るマリア=イザベルはすっかり動転してしまって、おれの両手からベッドをのけることもせずに、医者のところへ飛んでいっ た。だが、彼女が戻ってくるよりも早く、父が彼の主治医、ピエトロに付き添われて帰ってきた。おれは、このピエトロのことを信頼していた。おれよりも少し 若く、いつも医者とは思えないような身なりをしていた。それで医者嫌いの父にも好かれていたのだろう。 「何しとるんだ!」おれの姿を見た途端、父は大きな声で言った。余命いくばくもないと言われていたが、気は確かだった。「マリベルはどこへやった」 「医者を呼びに。おれの手がベッドの下敷きになっちまってるもんだから、血相変えて」 「ああ、何で先に退けてやらないんだろう」父を椅子に座らせたピエトロが、慎重にベッドに手をかけた。金髪碧眼の彼は、灰色地にそれよりもいくらか明るい 色の水玉模様の入ったシャツと、茶色いスラックスという、ここらでは見かけないセンスの格好をしていた。その力強い腕で、おれの両手をものの数秒でベッド の下から出してくれた。 おれは脂汗を流しながら、妻への罵詈雑言をまくし立てた。そして彼女が医者を連れて戻ってきたとき、まだ怒りは収まっていなかった。収まるはずもない、 画家としてとんでもない痛手だった。筆を持つことなど言語道断で、余命いくばくもないと言われている父の死までに回復しそうもないことぐらい、医学の知識 をほとんど持たないおれにも分かった。 父とピエトロ、そして新たにやってきた医者の目の前で、おれはマリア=イザベルと彼女の全ての荷物を家から追い出した。 「でていけ!」おれは大声で怒鳴った。近所の窓からはいくつもの顔が覗いていたが、気にしなかった。「画家の指を折るのがどれほどのことか、分からないの か?この売女が!」 マリア=イザベル、彼女との結婚生活は、おれが父のために描いているピエタと共にあった。確か、式を挙げた次の日の夜から描き始めたのだ。そして、この 作品の未来と共に、おれと共にあるはずだった彼女の未来も、永遠に消えた。 父は死ぬ前日まで、明晰さを失わなかった。それがありがたかった。それでおれたちは絵に関する話題を避けることができたのだ。 毎日午後四時ごろ、大体父の昼寝が終わる頃にピエトロが定期健診にやってきて、ついでにおれができないこと、たとえば洗物などをやってくれた。人助けを せずにはいられない性分なのだ。彼はおれの指も診て、たまに固定具を取り替えてくれた。その後、おれたちは三人で世間話をした。それでも絵に関する話題に は触れなかった。 木の枝についているのが枯葉だけになってから、しばらく経ったある日のことだった。確か、早朝だった。父が死んだ。 父の病状は悪く、おれはもう駄目だ、と思っていた。呼びかけに反応せず、それに気付いてすらいない様子だった。そこでピエトロを電話で呼んだ。彼はすぐ さま駆けつけ、診察してからおれに目配せをして、首を横に振った。 父は苦しげな呼吸の合間にうわ言を言っていたが、ほんの一瞬だけ目がおれを見た。 「おやじ」おれは彼の手を強く握った。「おれだよ、おやじ」 「絵はどうなっとるんだ?」父はほとんど目を閉じたまま言った。「わしに描いてくれているピエタ。あれだよ」 「息子さんはね、指を折っちまってるんですよ。だんな」ピエトロが父の耳の後ろに指で触れながら言った。「・・・絵がね、描けないんです」 「何てこった」父は呻いた。それが最後の言葉だった。 ピエトロは、おれが思っていた以上有能だった。彼の説得のお陰で、父の葬式は長年疎遠になっていた兄の方でやってくれることになった。 父の遺言どおり、遺体は火葬にされるらしかった。そこでおれはピエトロに手伝ってもらいながら、絵の具の溶き油を棺の中に注いだ。誰にも、何も言われな かった。新しく買ったばかりだったそれは、オリーヴ油のような色をしていた。 棺は激しく燃えた。 葬式が終わり、帰り際に兄が向こうから歩いてきた。おれの頬に指で触れ、軽い挨拶をくれた。おれも同じことを返そうと思ったが指が動かず、手の甲で肩口 に触れることしかできなかった。 ピエトロが紹介してくれた病院にいって精密検査を受けた。そこでの診断は残酷なものだった。おれの右手の親指と左手の人差し指は靭帯が切れており、おそ らく再び動くことはない―そう医者は言った。褐色の髪と小麦色の肌を持った、穏やかそうな、おれより少し年上に見える女の医者だった。昔のおれだったら結 婚を考えるような女だったが、今のおれは違った。八本の指で、幸せな生活など送れっこない。結局彼女の目の前で泣かせてもらっただけだった。 ピエトロは、今度はおれの主治医になった。「珍しくない。よくあることだ」彼は気さくな笑みを浮かべた。「周りの世話もできるよ」 「他の奴を見た方が、よっぽど稼ぎになるんじゃないのか?」おれは尋ねた。「診察代以外は払えそうにないんだ、先生」 「俺はただ世話好きなだけなんだよ、だんな」彼は白い歯を見せて笑った。「院長も、あんまり俺を当てにしていないんでね」 こうして俺の友人であり主治医でもあるピエトロは、新たな介護者にもなった。 おれにとって、描くことは生きることの重要な一部であり、心を救う一つの方法でもあった。心に積もっていく様々な思いが、絵を描くことによって消えるの だ。そのお陰で、おれは今まで奔放とも言える人生を送ってきた。 だが、その奔放さは二本の指の自由と共に去っていってしまった。何度か絵を描こうとしてみたものの、以前のようにいくはずもなく、かえって苛立ちが募る ばかりだった。悔しくて何度も癇癪を爆発させ、辺りを散らかした。 「きっと、だんなは女がいないと駄目なんだよ」ピエトロはそう言ったが、彼は分かっていなかった。確かに女は、おれが白いカンバスを彩るのを勇気付けてく れる女神だったが、それだけだった。絵が描けない今となっては、何の必要も感じない。描いた絵の数だけ関わりを持った女たちがいるはずだったが、今更会う 気はしなかった。いや、会うのが怖かったのだ―彼女達が今の俺の姿や言動から、かつて関わりを持った画家の姿を見出すことができるのだろうか? おれはピエトロに決まってこう答えるのだった。「女がいるとかいないとか、そういう次元の問題じゃないんだ。先生、違うんだ。これはそういう次元の問題 じゃ・・・」 ピエトロはおれのことを、かつて父を呼んでいたのと同じ風に呼んだ。彼にとってはおれも父も“だんな”なのだ。 たまにそれが嬉しかった。そういうとき、おれは陽気にワインを何本も空け、近所の老婦人と窓越しに大声で会話したものだ。 たまにそれが癪に障りもした。そういうとき、おれは癇癪を起こしたり、あるいは気難しげな顔をして椅子に座り、何時間も彼を無視し続けたりした。 金が少なくなりだした。父はほとんど借金しか持っていなかったので、おれと兄は二人で話し合い、遺産相続を放棄した。これでおれにとっては、父も兄も他 人になった。 彼らはかつて、何年か一緒に暮らしていたようだ。おれが一緒に暮らしたのは、父が死ぬまでの半年間。それが全てだった。肉親としての愛情は感じなかっ た。最後まで仲の良い他人同士として過ごした。 おれは八本の指しか使えなくなってから、これといった仕事をしていなかった―尤も、日常生活すら手助けなしには送ることができなかったのだから、当然と 言えば当然だ。それでも、おれは何らかの収入源を得なければいけないと感じていた。ピエトロは数時間にわたっておれの家で世話をしてくれていたが、頼って ばかりいるのも気が引けた。彼にか彼の生活があるだろうから。 おれからすれば驚くべきことだったが、ピエトロは独身で、決まった恋人もいなかった。 「結婚?まさか。自分より強い奴を養っていかなきゃならないなんて、まっぴらだよ」彼は声を上げて笑った。その日はベージュのコートの下に、シンプルな黒 いスーツと白いシャツを着て、大概のスカーフよりも派手な柄の入った、鮮やかな紫色のネクタイを締めていた。「女は大抵俺より強いからね」 「先生。あんたみたいな男盛りの人間が、おれみたいな奴の世話を焼く必要なんざない」おれは少し強い口調で言った。 「だんなが嫌だと言っても俺はやるよ」ピエトロは穏やかな口調で言った。「世話好きだからね、俺は」 寒い午後のこと、おれは呆然として椅子に座りながら、どうしてあのときマリア=イザベルの指を全て折ってしまわなかったのかと自問していた。針金みたい な指だったから、俺の八本の指でも折れただろうに。 昨晩やってきたピエトロが、どういうわけかその翌朝、床の上で伸びていた。真紅地に灰色の水玉模様のネクタイは緩められ、淡い灰色のシャツには赤ワイン の染みがついていた。 おれはといえば、二日酔い(あるいは、酔いが抜けていないといったほうがいいのかもしれない)で、頭痛と胸焼けが酷かった。半分ずり落ちるようにしなが らも、辛うじてベッドにつかまっていると言う有様なのだ。酷く飲みすぎたという気はしていた。何本ものワインボトルがテーブルや床の上に転がっており、割 れているものすらあった。どうしてこんな状況になったのか、おれの記憶はないにも等しかった。 「起きとくれよ、先生」おれはピエトロの方に這っていくと、その頬を手の甲で軽く叩いた。「こんな所で寝てちゃ、仕事に響くんじゃないのか」 鼻にかかった声を上げ、ピエトロが目を覚ました。顔に酔いは残っていかったが、頭を抑えていた。よく見ると、まっすぐ肩の上まで伸びた金髪の所々にガラ スの破片が見えた。「まだへべれけかい、だんな」 「少し酔ってるだけだ」おれは彼に手を貸して立たせてやった。「髪のガラス片は?」 「ってことは、覚えてないのかい!」彼は驚いた様子で言った。「だんなはへべれけに酔っ払っていて、色々わめき散らしてた。俺は押さえようとしたんだけ ど、ワインボトルで殴られて、今の今までこの様さ」 おれは溜息を吐いた―一体何をやらかしたのだろう。「先生、おれは何てことを・・・何て言ってた?先生を傷つけるようなことを?」 「いや。でも、指をくれ指をくれ、ってわめいてた。・・・少し泣いてたよ」彼はそこで時計を見て、「しまった」と言った。「一時間前に診察しに行かなきゃ いけないところがあったんだった」 「ああ、先生。おれのせいで。とっとと行かなけりゃならないのに」おれは後悔と恥に埋もれかけていた。「昨晩のことは忘れてくれ。恥ずかしくて恥ずかしく てしようがない」 ピエトロはのんびりとネクタイを結びなおし、ワインの染みがついたシャツの上からコートを羽織った。「今日は夕方ぐらいにくるよ」 「分かった。先生、本当にすまんな」 「嫌な雨が降ってる」窓を覗いた彼はコートの襟を立て、そのまま外にでていってしまった。 もう数ヶ月以上、絵を描いていなかった。指は相変わらず八本しか動かなかったが、以前ほどには日常生活に不自由を感じなくなったし、癇癪を起こすことも 減った。多分慣れてきたのだろう。八本の指で生活することにも、絵を描かないことにも。 何気なく自分の作品を引っ張り出してきてみたら、粗ばかりが目に付いた。酷い絵だと思う一方で、今のおれにはこんな絵すらも描けないのだ、と泣けてき た。 それからというものの、絵を見るたびに泣けてしまったので、とうとうおれは自分の絵を全て売り払ってしまった。金の足しになった。 おれはすっかり塞ぎ込みがちになってしまった。ピエトロが毎日のように訪ねてきてくれるのだが、いかんせん言葉が続かなかった。おれは黙ったまま、机の 上のコーヒーカップを見ていた。 ピエトロはそんなとき、無理におれに話しかけるようなことはせず、おれの動かなくなった右手の親指に触れていた。彼の手はすらりとしていて指が長く、丸 みを帯びた爪は短く切られていて、とても清潔そうだった。おれの沈黙を、少し当惑しながらも受け入れようとしているように見えた。 鏡の中のおれは白髪と皺が増え、すっかり偏屈そうな老いぼれの顔になっていた。これでも前まで画家をやっていたのだ。誰に信じられよう?いや、これはこ れで画家らしいのかもしれない。 ピエトロは、あんな指を持っているのにも拘らず、絵を描かない男だ。「先生、先生は絵を描いたりなんてしないのか?」おれは尋ねた。 彼は一瞬動きを止めたが、次の瞬間にはもう笑っていた。「だんな、無理なことを。俺には絵心ってものがないんだよ。芸術の時間が苦痛でしょうがなかっ た。教師にも諦められてたんだから」 「そんな指だったら、おれにくれちまえばいい」おれはつい口走っていた。自分で止める間もなかった。あわてて彼に、「すまん」と言った。 「ぞっとしないね」ピエトロは両手の親指と人差し指をくるりと回して見せた。「だんな、俺はこれでも医者の端くれさ」声の端に、わずかではあるが怯えのよ うな色が見えた。 「すまん、先生。老いぼれの戯言だと思って、忘れてくれ」 「気にしなくていいんだよ、だんな。ただ、あんまり人前でそんなことは言わないほうが賢いね」彼はそう言って時計を見た。「これから診療だ」 部屋の中に一人、おれは残された。あのピエトロが時間通りに動くなんて。いや、きっとおれと一緒に座っているのが嫌になったんだろう。 最近、やたらと人の指に目が行くようになった。下手をすると、顔よりも印象に残っていることがあった。 この前、久し振りに通りを歩くためだけに外に出た。途中で絵を売っている少女に会った。えらく骨ばった指は、爪の間が黒く汚れていた。でも可愛い手だっ た。しばらくその前に立っていると、彼女の方から声をかけてきた。 「ようやく人に見せられそうなのができたから、今日初めてここに持ってきたの。・・・どう?」 おれは絵を見た。どれも絵葉書ぐらいの大きさで、簡単なスケッチに淡いパステルで色がつけてある。線がしっかりとしていた。「いいじゃないか。おれは好 きだよ、こんな絵が」それから少女の顔を見た。学校を出たばかりだろうか。あるいは、行っていないかもしれない。貧しそうな身なりをしていた。 「本当はね、絵の具で色をつけたいんだけど。でも高いから」少女は歯を見せて笑った。幼い笑顔だった。 「絵を描くのは好きかい?」おれは尋ねた。「だったら、それに感謝して、絵を描き続けるんだぞ」 少女は怪訝そうな顔をしていたが、それよりも休みなくぴくぴくと動いている指が印象的だった。やがて動きが止まり、「好きだけど。・・・でも、どうして そんなこと言うの?」と言った。 「描きたくて描きたくて仕方がないのに、絵が描けない奴もいるからだ」 「お金がないから?」 「いや」おれは彼女の指に視線を落としたまま答えた。「金がなくても、描くことは何とかやっていけるもんだ」少し間を置き、彼女の指が落ち着きなく動き出 したのを見て、また続けた。「肉体的に問題があって、描けない奴のことを言っているんだ、おれは」 彼女は指で自分の膝を叩き始めた。「おじさんのことなの?それ」 「そうだよ」おれは小さく笑った。「指が二本、動かなくなっちまった。長い間手で描き続けてきたから、他の方法でやる気力もない。作品は全部売ったし、新 しく買った油も捨てた」 「おじさん、画家なんだ」 「今はもう違う。ただの老いぼれだ」 「もう描かないの?」 「絵を描くどころか」おれは彼女の指に、そっと手の甲で触れた。動きが止まった。冷たい指だった。「普通の暮らしも一人じゃできない」 「大変なんだね」少女は呟いた。少し黙り込んだ後、大きな鞄の中を探り、中から一枚の絵を取り出すと、おれに押し付けた。「あげる」 「いくらだい?」おれはポケットの中の小銭を探ろうとしたが、止められた。 「いいの。あげるんだから」彼女の小さな手は、思いのほか強引だった。 おれは結局受け取った。どうやって感謝の気持ちを表そうか迷った挙句、彼女の指を不器用に八本の指で包み込んだ。「ありがとう。嬉しい贈り物だ」 彼女は居心地悪そうに、おれの手の中で指を動かしながら言った。「元気出して」 おれは夕方ふらりと現れたピエトロに、そのことを話した。 「心温まる話!」彼は洗物をしながらこっちを向いた。「で、その小さな天使ちゃんはどんな女の子で?」 「可愛い手しか覚えてない」おれは正直に答えた。「・・・先生、ネクタイが濡れてるぞ」 ピエトロは濡れた手でネクタイを肩に跳ね上げた。「学校に行ってないんじゃないかな、その子。だって、だんなが歩いていた時分は授業中だよ」そこまで言 うと、彼は急に声の調子を変えた。「・・・だんな」 「何だ?」おれは彼の長い指に見惚れていたが、視線を上げて返事をした。 「・・・一旦、おやじの所に帰んなきゃいけなくなって」 「病気か?」 ピエトロは無言で頷いた。いつもの笑顔がなかった。 「行ってやれ。最後まで傍にいてやれ」 「でも、だんなのことも心配だ」彼は疲れた表情で言った。「おやじは癌でね。どれくらい空けることになるのか、まだ分からないし」 「先生、おれなら大丈夫だ。何とかやるさ」おれは手の甲で、彼の濡れた手に触れた。「なあ、行ってやらないと」 「ああ、だんな。おれはだんなの主治医として失格だ」ピエトロが不意にテーブルに手をついた。喘ぐような声を漏らしたので、てっきり泣くものだと思った が、違った。彼は言った。「ごめんなさい、だんな」 「おれが先生の立場でも、同じことをしただろうさ」おれは小さく笑った。 おれはピエトロが今までやってくれていたことを、彼の何倍もの時間をかけてやった。不思議と今まで程の苛立ちは感じなかった。 日常生活が、一気に忙しくなった。 ある日、天気がよかったので通りを歩いた。この前の少女に再び会った。ほんの少しの間、他愛のない話をした。離している間にふと思いついたことがあった ので、おれはそれを口にした。「絵の具をあげようか?」おれは言った。「もう使わないだろうから。お嬢ちゃんが使ってくれる方が、よっぽどいい。この前の 絵のお礼だ」 少女は両手の指をせわしなく動かしていたが、「うん」と答えた。「ありがと、おじさん」 家に帰ってから、おれは絵の具をまとめた。絵に対する未練のないことに、自分でも驚いた。これからの生活の中に、絵を描くことが入り込む余地はなさそう だった―必要最低限の生活をするだけで、大抵の日は終わってしまう。 おれは汚れていた筆も一本一本きれいにして、筆入れに収めた。そしてその翌日、画材一式を少女にあげた。「まだあるから、もっと欲しいなら言ってくれ」 「いいの。これで充分!」彼女は言った。 彼女のこんなに嬉しそうな表情は見たことがなかった。 おれは日常生活を、何とか人並みに送れるようになってきた。ちょうどその頃、約一年ぶりにピエトロが帰ってきた。最後に会ったときに比べて日によく焼け ていたが、オリーヴ色のシャツに、派手な刺繍の入った灰色のネクタイ、紺色のスラックスという、以前と似たようなセンスの格好をしていた。まっすぐな金髪 は背中の辺りまで伸びたのを紺色の細いリボンで束ねていて、毛先が痛んで白くなっていた。憔悴した様子ではなく、むしろ幸せそうに見えた。 「おやじは皆に見守られて幸せに死にましたよ、確か半年前のことだったかな。それから漁を手伝ってたんだ。向こうで結婚した女房のおやじさんが漁師をやっ てるもんで」彼は一層際立つ白い歯を見せて笑った。「だんなは元気そうでよかった。気のせいか、最後に会ったときより生き生きしてるみたいだけど?」 「ようやく人並みに生活できるようになったんでな」おれはピエトロのがっしりした体と、すっかり荒れてしまった手を見た。「もうこの家には、先生の患者は いないぞ」 ピエトロはおれの手を取り、触診した。荒れた皮膚があちこちで擦れた。「すっかり勘が鈍っちまった」 「一年前と同じだ。ぴくりとも動かん」 「困ってることはあるかい?」 おれは少し考えてから言った。「いや、先生。特にない」 「そいつはいい!」彼は声を上げて笑った。「じゃあ、これからはだんなと俺は友達同士ってわけだ。・・・だんなが嫌がろうがね」 「嫌なわけがあるもんか!」俺は彼の肩を乱暴に叩いて、それから大声で笑った。「先生の女房の顔が早く見たい」 「明日明後日にでも連れてくるよ」彼は上機嫌そうだった。相変わらずの元気な男だ。 それから数年が経ったが、通りであの少女を見かけることはなかった。だが、彼女の絵はたまに見かけた。それは例えば小さな画廊の片隅にあったり、何人も の新鋭芸術家達の共同展の会場にあったりした。一作品ごとに上達しているように思えた。展覧会の会場で、彼女を見たことが一度だけあった。眼鏡をかけてい て、すっかり大人の顔になっていた。でも、おれは指を見ることができるほど近寄りもしなかったし、声もかけなかった。あの可愛い手は、今は絵の具で汚れて いるのだろうか? ピエトロの妻は、彼同様に元気で明るい女だった。二人の間に生まれた三人の女の子のうち、一番上の子(確か今年で八歳になる)が絵を描くことが大好きら しい。 ピエトロは相変わらず医者をやっているが、彼の妻によれば半日も仕事をしていないらしかった。気楽なものだ。 おれはと言えば、最近になって、次第に日常生活が大変なものに思われだした。動かない二本の指のせいではなく、多分老いによるものだ。それでも相変わら す独りで暮らし、週末にはピエトロの家に招かれて過ごし、彼の一番上の子が描いた絵の、ちょっとした批評者にもなったりした。 そうだ、あの可愛い手をした彼女が、初めて会ったときおれにくれた小さな絵。あの絵は、まだ手元にある。ベッドの横にある小さな箪笥、一番上の引き出し にしまってある。この絵はおれが死ぬとき、ピエトロに残していくつもりだ。 絵を描くことは生活の中から消えたが、おれと芸術とのかかわりは、未だなくなっていない。芸術はいつも傍にある。八本の指で、おれはそれなりに幸せな生 活を送っている。 2006.12.23 輝扇碧
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