異端者は楽園の脅威だ。彼の来訪は、つつがなく続いていた楽園に終わ りをもたらす。

(夏の昼下がり、ジェイ、君は熱のこもった部屋の換気扇にロープをかけ、今まさに首を吊ろうとしている。
 私達が初めて出会った時から、まだ一ヶ月と、ちょうど五日しか経っていないのに)

 初めて出会った時、ジェイはホテルのプールサイドで白い長いすに寝そべり、黒いサングラス越しに、大儀そうに本を読んでいた。
 プールでは一人の女がもがいていた。今にも溺れそうなので、私は心配になり、まるで焼けた石のようなプールサイドを歩き、彼女の方に向かった。光の乱反 射する水面を覗き込んで、初めて彼女が溺れているわけではないことに気が付いた。小麦色に日焼けした肌にふさわしくないほどにまで、手足はやせ細ってい た。
 彼女は近寄ってきた男のことなど気にもかけなかったようだ。溺れているのではなく、泳いでいたらしい。
 私は反射的にジェイを見た。彼は何ら変わらない様子で本を読んでいた。
 時刻は次第に夕方へと移行していき、女は泳ぐのをやめて、水面を漂いはじめた。彼女の豊かな黒髪は、水中で海草のように揺らぎ、小麦色の肌と身に付けて いる白い水着を包み込むかのようだった。
 部屋に引き上げる時ジェイを見たが、まだ本を読んでいた。

 朝起きてから、真っ先にルームサービスを頼んでシャワーを浴び、髭を剃った。部屋には冷房が備え付けられておらず、おかげでひどく汗をかいた。
 ボーイが朝食を運んできた。まるでアルビノのようなプラチナ・ブロンドに、淡い青色の目をしたこの青年がやってきたのは、私が給仕人を嫌がったからだ。 彼はまだ少年の面影を残した、美しい顔立ちをしていた。
 少しの間考えた結果、私は彼に給仕をさせることにした。長い時間、人と話していないことに気が付き、会話をするきっかけが欲しくなったのだ。
 青年がグラスにジュースを注ぎ終えるのを待ってから、私は彼にジェイのことを問うた。
 彼は微笑んで頷き、棗型をした目を細めた。「わたしは名前を存じ上げておりません。ですが、随分と前からおられます。ウェルカム・フルーツをお持ちした のですが、それもいつのことでしたか」
 それからしばらくの間、私達は取りとめもない話を続けた。話はやがて、私の水入れにまで及んだ。窓際においてあったそれと筆を、青年が見つけたのだ。彼 は髪と同じ色で縁取られた目を瞬かせ「絵を?」と言った。
 私は頷いた。「ここにはそれで来たのだが・・・こうも暑くては。絵の具も水も、あっという間に乾いてしまう」
「今年がとても暑いのです。今まで冷房が必要になったことはございませんから」
 青年が部屋を退出する時、私は彼にしばらくの間給仕をしてくれるように頼んだ。彼は快諾し、丁寧に頭を下げた。それは私に、あたかも私が後宮にいるかの ような錯覚をさせた。

 ジェイはたいてい昼下がり、他の客が昼寝をしている頃、車椅子を押してプールサイドにやって来る。
 車椅子に座っているのは女だ。豊かな黒髪に、まるでマネキンのような顔をしているが、無造作に投げ出された手足は痩せ衰えて強張っている。彼女の笑顔を 見たことがなかった。笑えばさぞかし美しいだろうに。
 ジェイは彼女を抱き上げてプールに入れる。その時に彼も腰まで濡れる。それから自分はパラソルの下、白い長いすに寝そべって本を読む。濡れた体が乾いて も彼が動くことはなく、午後いっぱいをそこで過ごす。

 ジェイは若くはない男で、真っ直ぐで量の多い黒髪を肩まで伸ばしている。白いものはほとんど見られない。伸びた髭が顔の下半分をまばらに覆っている。肌 は赤黒く日焼けし、黒い体毛が生えている。
 別段体格が良いというわけでもないが、車椅子を押したり、女を抱いたりしているせいだろう、肩と腕が逞しい。
 彼の目を見たことはない、いつも黒いサングラスに隠されているから。

 私が彼をジェイと名づけたのも、ちょうどこの頃だった。本当の名前は知らない、私が勝手に自分の中で呼んでいるだけだ。月並みな、辺りを見回しさえすれ ばすぐに見つかる男。ジョーンズの頭文字をとった、それがジェイだ。
 女はそのまま、私の中ではただの女だった。こちらはなかなかの美女だったが、それだけのことだった。これといって興味を引くようなものを、他に持ち合わ せていない。
 ジェイと女の間に会話はない。おそらく話す気にもならないような女なのだろう。

 プラチナ・ブロンドのボーイは、日が経つにつれて親しげになってきた。よく笑い、よく話す。この美青年と並んで歩けば、さぞかし人目を引くことだろう。
 女について、何か知っていることはないかと尋ねてみると、彼は形のよい眉をひそめた。
「手足が不自由なようです。それと・・・ええ、声を聞いたことが」
「ない、と?」私が後を継ぐと、彼は頷いて認めた。
 私は恥じ入った。何と軽はずみに考えていたのだろう。
「暑さも少し、和らいできましたね」ボーイが水入れを見て言った。「筆も進むことでしょう」
「だと良いのだが・・・。なにぶんモチーフをまだ決めていない」
「庭に出てみてはいかがですか?沢山の植物がありますから」
 食器を片付けている青年の体の線を視線でなぞっているうちに、随分と長い間、人物画を描いていないことを思い出した。

 まだ朝も早い頃、スケッチブックを持ってプールに行った。
 ありふれた都会での日常からは決して見出せないものが、ここにはある。派手な色の植物と果実、そして慌しさを持たない時間。
 花に近寄るだけで、強烈な甘い香りが漂ってきた。どの花も派手だ。これらの色をそっくりそのままカンバスに写し取るのは簡単なことに思われた。きっと原 色使いの派手な絵が出来上がるに違いない。

 ジェイは今まで通り、午後をプールサイドで過ごしている。
 私は一日のほとんどを創作活動に費やすようになった。朝早くから夕方まで庭にいる。
 庭はレストランのテラスとつながっているが、幸いにも客が少ないので邪魔をされることはなかった。それだけではなく、この庭からはあのプールが見えた。
 ジェイも私も、互いの姿が見えるようなところにいながら、決して自分のいる場所から動こうとしないのだ。

 ジェイかサングラスを外していた。彼と同じ場所、プールサイドにいたならば、その目をはっきりと見ることができただろうに。庭からでは、彼の目は影に なっていてよく分からない。
 だが、彼がこちらを見た時、私はその影から鋭さを感じた。

「ここの植物は美しいでしょう?」青年は自慢げに言い、私に微笑みかけた。
 私は頷いた。「とても鮮やかだ」
「ここは楽園ですよ」彼はプラチナ・ブロンドの髪を揺らした。「今までつつがなく続いてきました。これからも・・・」

 ボーイの放った美しい言葉が耳に残って消えようとしないまま、絵を描くのは不思議な気分だった。だからと言って筆が進まないというわけでもなく、私は創 作活動を続けた。
 もう何日もここにいるのに、ジェイ以外の人をほとんど見かけない。一度だけ、テラスに老夫婦が座っているのを見た。たったそれだけだ。だが、それも当然 と言ってしまえばそうだろう。この土地の人々はこぞってバカンスに出かけており、数軒を除いた全ての店が閉まっている。もっと有名なところだったら、その ようなことはないのだろうが。
 この小さな楽園に、好き好んで来る観光客が果たしてどれくらいいるだろうか。私がここに来たのは観光のためではない。

 カンバスの下地が半分ほど、鮮やかな原色に塗り替えられた頃のことだった。
 次第に午後の暑さも和らいでいき、私は体が楽になったような気がしていた。パレットナイフを新聞紙で拭っている時、後ろから声をかけられた。
「絵を・・・?」
 私は振り返り、同時に驚いた。ジェイがそこにいたのだ。
「そう、絵を」私は答え、改めて彼を見た。
 綺麗な目だった。目尻の少し下がった、切れ長の目だ。瞳は鮮やかな緑色で、白目が驚くほど澄んでいる。そのコントラストが鋭さを感じさせるのだろうか。
 私は彼に「あなたのその目は、本来の色かな?」と尋ねた。
「もちろんだ」ジェイは軽くあごを反らし、その様子が誇らしげだった。「おれのじいさんから貰った。じいさんはインディアン・・・いや、ネイティヴだっ た」
 改めて見ると、確かに彼の顔は白人のそれではない。今までヒスパニックかと思っていたが、少し違ったようだ。厳しい顔つきをしているので老けて見えるの だろう、見かけよりも声は若々しく、私と大して違わないように思えた。
「なるほど、それで・・・。このカンバスに見つけられそうな色だ」
 ジェイは声を上げて笑った。「全くだ。・・・ほら、この辺りの色だな」
 しばらく話しているうちに、私は彼が一人だという事実に気づいた。プールサイドに目をやったが、女の姿はおろか、車椅子も見当たらない。
「失礼だが・・・お連れの方は?」
「部屋で休んでる」ジェイが答えながらわずかに目を伏せた。「腹を冷やしたみたいなんだ。・・・ちゃんと世話は人に頼んでる」
「体が悪いようだが・・・」私は踏み入った質問をした。「尋ねても?」
 ジェイの顔には、一言では形容しがたい表情が浮かんでいた。後から思えば、それは安堵だったのかもしれない。
「背骨をやっちまった」彼の声はあからさまに明るく、よそよそしかった。
「背骨を」と私は呟き、ジェイは表情を暗くした。
「物見台から落ちてな・・・。四肢に麻痺が残った。それから一月もしないうちに、今度は心の病気だ」彼は一旦言葉を切ってから続けた。「分かるか・・・? いや、俺は分かるよ。あんたには分からないし、分かっちゃいない」
 私は「気の毒に」と呟くしかなく、それでジェイは彼が今までいた場所に戻っていった。

 ジェイとの会話で、何かを見出した。
 絵に新たな二色を加えることにした。白、そして黒。女の水着、プールサイドのパラソル、そしてジェイの髪の色。

 ジェイは彼の祖父、インディアンの血を引いている。だが、三代の間にそれは薄れてしまったようだ。彼の態度に気高さはなかった。彼の目からはしなやかさ を連想することはできなかった。
 だが、彼の表情からは抑圧された苛立ちと不安、そして悲しみが見えた。女のことで頭を悩ませているのだろう。彼女は妻なのだろうか?二人の間には、互い に安心しているような、柔らかな空気がある。

「いつからここに?」美しいボーイに尋ねた。
 彼はしばし考え込んでから答えた。「・・・幼い頃から。住み込みで働いていた母にくっついていました」
「お母さんは今も?」言ってから後悔したが、幸いにも私の不安は当たらなかった。
「ええ」彼は微笑んだ。「今は厨房で働いています」
「君はこの楽園に・・・」
 最後まで言い切る前に、彼ははにかんだような笑顔になった。

 白と黒を絵に加えたのは、失敗だったかも知れない。これらの色は、絵の中で変に浮いてしまっている。今までのままでも、絵は成り立っていたかもしれな い。二色とも、鮮やかな絵の中で、困ったように浮き立っている。
 他の色でごまかしてみようとしたが、ますますひどくなり、私はこれまでの努力が無駄になった気がした。

 カンバスの上で絵の具を混ぜている私を見て、ジェイは笑った。まるで自分を嘲るかのように、乾いていて、表情のない笑いだった。
「白と黒。俺とあいつの色だな。ここに来ちゃいけなかった・・・いけなかったんだ」
 彼は何か切迫したものを抱えているように見えたが、私はそれ以上のことに気が付いてやることができなかった。だからこう言っただけだった。「違う」
「違うもんか」笑うジェイの表情が暗くなっていった。「いや・・・いや、いいんだ。いいんだ。あんたを責めてるんじゃない。そんな理由、ありゃしない」
 私は彼が狂ってしまったとしか思えなかった。鮮やかな楽園の色をした目に、彼の黒髪が、まるで暗雲が立ち込めるようにかぶさっている。
 彼はそのまま行ってしまった。

(ジェイ。私は声をかけてやろうとしている。だが声が出ない。
 部屋の奥で倒れているのは、君の奥さんだろうか?彼女をベッドに戻してやらないと。自分の力では上がれないのだろう?君が何時も、彼女を抱きかかえて運 んでやっているのを知っている)

 プラチナ・ブロンドのボーイの手に、引っかき傷ができていた。
「ここ二、三日の間、一度も掃除をさせようとしないんです」彼はそう言った後に、その傷がジェイに付けられたものであることを付け加えた。
「彼が狂ってしまったように思う」私は言った。
「お客様」彼は金に縁取られた目を瞬かせた。「お客様は、ここにいらっしゃってから、日毎に良くなっておられます。でも、あの方はその逆です。お陰で従業 員一同、不安で仕方がありません・・・何か悪いことをしでかしたのでは、と。今までこのようなことは、一度もありませんでした。・・・一度も」

 全てが上手く行かなかった。全て上手くいかなかった。
 私の絵は、ひどい有様としか言いようがなかった。極彩色が渦巻いていて、まるで気違いの目に映る世界のようにも思えた。
 このままこの絵を描き続けるとしたら、私も徐々に狂っていくに違いない。

 二日続けてジェイと会わなかった。女の姿も見かけない。
 ボーイに聞いても、先日と同じ答えだった。人と触れ合おうとしないのは、どういった理由があるからなのだろうか。
 覚えず、私はボーイにジェイの部屋を訪ねていた。「行ってみるよ」
 私の言葉に彼は頷いた。

(なぜそんな勇壮な顔をしているのだろう。ジェイ、君という男は。今の君を見ていると、君がネイティヴの血を引いているのがよく分かる。まるで開拓者の手 によって、絞殺されようとしているインディアンだ。
 ジェイ、駄目だ。足を踏み外すな。いけない!)

 部屋のドアには鍵もかかっていなかった。私はノックを忘れ、ドアを開け放った。部屋の中は、熱気がこもっており、蒸し暑かった。
 ベッドのすぐ横の床に、女が倒れている。胸が大きく上下していて、それで眠っているのだと分かった。
 そんな中、ジェイは動きを止めた天井の換気扇からロープを吊り下げ、備え付けの椅子を踏み台にして、首を吊ろうとしていた。

(ジェイ、駄目だ。いけない!)

「ジェイ、駄目だ。いけない!」
 ようやく私の口から声が出た。「何をする、ジェイ!」
 ジェイは弾かれた様に私を見た。それだけだった。それで充分だった。
「あんたか」彼はそう言って、床にがっくりと膝を着いた。ロープが首から取れた。「誰かが止めてくれる。・・・俺はそう思っていたのか」小さく呟くのが聞 こえた。
 私は震えながら、ジェイの傍に屈み込んだ。「ああ、ジェイ」
「ジェイ?」彼は薄く笑った。「違う、俺の名前は・・・いや、いい。ジェイ、か。それもいいな」
 しばらく他愛のない会話を交わしているうちに、ジェイの声がいつもの調子に戻ってきたのが分かった。具合はどうかと尋ねると、彼は手で顔を拭って言っ た。「水か欲しい」
「分かった」私は倒れている女に目をやった。「彼女をベッドに戻しておこうか?」
「どいてくれ。俺がやる」ジェイの顔はいつもと同じ表情で、先程の勇壮なそれが嘘のようだった。
 彼が女を抱きかかえた時、繰り返し謝罪の言葉を呟いているのが聞こえた。

 朝が涼しくなってきていた。ルームサービスを頼んだ後、私はシャワーを浴びようとしたが、さほど汗をかいていなかったのでやめた。
 美しいプラチナ・ブロンドのボーイが、いつものように朝食を運んできた。彼が私の正面に腰掛けた時、いつもより遅れてきたのに気が付いて尋ねた。
「彼のことで、支配人から大目玉を食らいました。・・・従業員全員が」
「可哀そうに」
「表立った事件にこそなりませんでしたが」青年は不安げに瞬きした。その色素のせいだろう、金粉が飛び散っているようにも見える。「管理体制を見直すべき だ、との声が。これでここも変わってしまう・・・彼のせいで」
「残念なことだ」
 ここで育ってきた彼の言うことだ、間違いないだろう。だとしたら、ジェイはまさに、この楽園に現れた異端者だ。

 プールサイドに人の姿はなかった。かつてジェイが寝そべっていた長椅子に横たわる姿はなく、プールには、風で飛ばされた数枚の葉が浮いていた。
 寂しい気持ちだった。何もせずにはいられず、かと言って、絵を完成させる気にもならなかった。私の絵は、もはや方向性を見失っていた。
 彼がいたならば、この絵を完成させて渡そうと思っていた。このカンバスの世界の主役は、まさしく彼だから。だが悲しいかな、彼はもういないのだ。

 プラチナ・ブロンドの美しいボーイ。彼とジェイについて話すことはなくなってしまった。代わりに絵のことを話すことが多い。
 彼は今では、時々私の描く絵のモデルをやってくれる。母親が一緒に来る時もある。彼のプラチナ・ブロンドは母親譲りかと思っていたが、違った。だが、棗 型の目と、それを瞬かせる仕草が彼と同じだった。
 彼女がこの青年に「ジルベール」と呼びかけているのを聞いた。彼の名前を耳にしたのは初めてだ。どうして今まで、私は尋ねようとしなかったのだろう。
「ジル」私が呼びかけると、美しいボーイは驚いた顔をしていた。

 夏が終わろうとしている。私はかつての楽園から立ち去り、窮屈な日常に戻らなければならない。
 来年またここで、完成させることのできなかったこの絵を仕上げよう。ジェイによってかつての姿を失ってしまった、美し い楽園の為に。
 そして、この楽園に訪れた異端者、ジェイの為に。


2006.05.13 輝扇碧