俺がアンジェロと最初に会ったとき、やつはおそらくやつの人生の中で一番きれいな見てくれをしていた。十三歳のアンジェロは、明るい栗色の髪に、赤みの ない象牙色の肌をしていた。
 生徒の間で人気だった、若くて美人なソフィー先生の代わりに、老いぼれじいさんが美術の先生になってから、俺とやつは卒業するまで最低の生徒を演じ続け た。他人の感情を逆撫でするのはアンジェロのほうが上手かった。卒業式の前日、老いぼれじいさんがやつを呼び出して、堕天使呼ばわりしたそうだ。
 アンジェロはその場でじいさんを殴ったらしい。

 俺とアンジェロは他のどんな生徒達よりも仲良しで、卒業してからも頻繁に連絡を取り合っていた。
 十九歳のとき、アンジェロは大きな病気をしてあまりにも高い熱が出たので、俺はやつともお別れだと思ったほどだった。だがやつは奇跡的に回復して、神父 を呼ぼうとしていたやつのお袋さんをびっくりさせた。
 アンジェロのお袋さんは、死の淵から生還したやつを見てもあまり喜ばなかった。彼女が愛した息子の容貌は、熱のせいかすっかり醜くなってしまっていた。 髪には白髪が混じり、眼は落ち窪み、頬はこけ、血色の悪くなった肌はどす黒かった。アンジェロは自分の見てくれを気にかけない人間だったが、お袋さんは何 とかしてやつを元の顔に戻そうとしてあれこれ試みたようだったが、どれも失敗した。アンジェロととやつのおやじを残して彼女が家を出て行ったとき、やつの 家庭は崩壊した。

 二十歳のとき、俺は独り暮らしを始めるためにアパルトマンを借りた。アンジェロの家から少し離れていたので、俺はやつのところに挨拶しに行こうと考え た。
 家の前の階段に、やつはもたれかかるようにして座っていた。頬に殴られた後があった。
「親父が再婚したがってるのさ」アンジェロが眼だけを俺のほうに向けて言った。「・・・僕のことが煙たいんだと」
「俺は少し離れたアパルトマンに引っ越すことになった。で、アンジェロ。お前どうするんだ?」
「どうもするかよ」アンジェロがひび割れた声で言った。「新しいお袋を殴ってやる。おやじは僕を会わせたくないらしいけどな」
「・・・アンジェロ」俺は地面にしゃがみ込んだ。「しばらく俺のアパルトマンを使うか」
「お前は気が利くな!」アンジェロは鼻を鳴らして自嘲した後、俺の提案を受け入れることに決めた。

 アンジェロは、やつのおやじが定期的に送ってくる金を決して使わなかった。俺が理由を聞くと、いつも激しく怒った。
「どうしてあんなやつの金を使わなきゃならないんだ?金が要るなら自分で稼ぐよ。この金は僕のじゃない、おやじのだ!」
 俺は自分で書いた小説を三流タブロイド誌に連載したり、清掃員の仕事をやったりしていて、何とか生活するだけの金はあった。アンジェロに仕事を強要した ことは一度もなかったし、それが当然だと思っていた。あの病気の後、アンジェロはすっかり虚弱体質になってしまい、食事を受け付けないこともたまにあっ た。お陰で痩せこけたままだった。
 俺は一つしかないベッドをやつに使わせた。俺に負い目を感じているのか、いつもやつは暗い顔をしていて、俺は心配していた。

 ある朝、俺がアパルトマンに戻ると、アンジェロは画用紙の束をベッドの脇に積み上げているところだった。俺に気が付くと、気まずそうに笑って、「木炭も あるんだ」と言った。
「アンジェロ。お前、どこから・・・」
「おやじのところさ。僕が生まれた頃はあいつ、絵描きをやってたらしい」
 その日のアンジェロはよく笑い、そしてよく食べた。「体を動かせば、腹って自然と減るもんだろ」珍しく頬を上気させてそう言った。

「旅に出てくる」
 アンジェロはそう言って、ふらりと出かけていくことがあった。旅はたいてい日帰りだった。酔っ払って帰ってくるときもあれば、ポケットの中で小銭をじゃ らつかせているときもあった。
 俺はやつの旅についてこれと言って嫌な思いをしていなかったが、やつが酔っ払って帰ってくるのにはうんざりしていた。やつは酒癖が悪く、酔うと気違いの ようになった。一度泥酔していたときに、俺のことを他人呼ばわりし、アパルトマンから追い出そうとしたほどだ。
 小銭を稼いで(描いた絵を売るらしい)戻ってくるとき、アンジェロはいつも嬉しそうだった。鼻歌を歌いながら帰ってきては、俺にその日の稼ぎを報告して 笑った。俺も笑った。少しでも収入が多いと嬉しかったからだ。

 俺は日々働き、アンジェロは歩き回って絵を描き、お陰で二人とも体に肉が付いてきた。俺の体は労働者のそれになった。アンジェロは俺をびっくりさせるほ ど健康的になったが、頬と眼は落ち窪んだままだった。髪は半分近く白髪になっていた。体毛の色が白っぽくなったせいで顔の印象が変わり、彫の深さが際立 ち、まるで彫刻のようになった。俺がそのことを言うと、やつは長いこと洗面所の鏡の前に立って、自分の顔をスケッチしていた。
 アンジェロはアパルトマンにいる間、食事と睡眠以外の時間はずっと鏡の前に立ち、スケッチを続けた。多いときには一日で数枚書いた。
 ある晩のこと、増え続けるやつのポートレートに、俺はついにぞっとしてしまった。
「アンジェロ。お前・・・どうして自分の顔ばっかり描くんだ?」俺はやつに尋ねた。
「鏡でいちいち見なくとも」アンジェロが、描き上がった画用紙をベッドの上に放り投げた(それは届かずに俺の足元に落ちた)。「僕は自分で自分の顔をちゃ んと描けるようになりたいのさ」
 俺は返事をしなかった。気分が沈み込んだ。こんなやつを住まわせている俺は狂っている。かと言って、アンジェロは追い出すのにはあまりにも哀れなやつ だった。
 俺の知り合いに何人か画家がいたが、どいつもこいつもアンジェロとは違い、自分の作品にそれなりの愛着というものを持っていた。
 アンジェロは、どんどん増え続けるポートレートを壁にピンで留めるようになり、やがて壁が画用紙で見えなくなった。俺はそれらを一枚残らず剥がした。だ が、やつは怒らなかった。やつにとって、描くという動作だけが、やつの中に立ち込めているだろう暗雲を昇華させる手段だった。そして、その手段こそがやつ にとっての全てだった。俺はかさばるポートレートを紐で束ね、その週の廃紙回収に出した。アンジェロは何も言わなかった。

 ポートレートの中のアンジェロの髪は、枚数を重ねるごとに明るくなっていった。反比例するように、顔は暗くなっていった。壁の左上と右下とでは、その変 化の大きさが見て取れた。

「旅に出てくる」
 久々にそう言ってアンジェロが姿を消した後、俺は心の底から安堵した。部屋を掃除して、俺の寝床になってしまったソファーのクッションカバーを洗濯し、 窓という窓を開け放った。それから、頭の中ででき上がっていた小説をタイプした。自分でもびっくりするほどはかどった。
 その日、アンジェロは帰ってこなかった。その次の日も、また次の日も帰ってこなかった。俺がちょうどアンジェロのいない生活に慣れてきた頃にやつは戻っ てきて、成立しかけていた新生活をぶち壊した。
 よろめきながらドアを開けたアンジェロは泥酔していて、洗面所で立て続けに二回吐いた。それから少し落ち着いたらしく、シャワーを浴びた後、ベッドに倒 れ込んだ。
 俺はやつの服を洗濯機に放り込んだが、あまり汚れていないことに気付いた。ハーブの匂いがした。
 アンジェロはまだ酷く酔っていたが、喚き出す素振りは見せなかった。
「アンジェロ?」俺は囁くような声で言った。「どうした?」
 アンジェロが啜り泣き始めた。
「アンジェロ?」俺は戸惑いを隠せなかった。「とうした?何があった?・・・アンジェロ、言ってくれなけないと分からない」
「もう生きる気力がない」嗚咽の合間にアンジェロが言った。「生きられない」
「その割に、よくここまで帰ってきたな」
「死ぬ気力もないよ。・・・女の子って酷い生き物だな」
 俺はうんざりしていたが、やつの背中をさすってやった。「アンジェロ。お前、意外と女々しいんだな」
「天使みたいな可愛い子だったんだ。真っ黒な髪でさ」
「黒?それは黒い翼の悪魔に恋したんだろう」
「お前、知らないんだな!天使の羽が白くなったのは、つい最近のことさ。僕はお前のそういう固定観念が一番嫌いなんだよ!」
「アンジェロ。落ち着け・・・俺が悪かった。それで、話の続きは?」
 その後の話を聞いて、俺はアンジェロのことを哀れなやつだとしか思えなくなった。
 とある女の子に一目惚れしたやつは、ずっと遠くからスケッチを描き溜め、服を洗い、シャワーを浴びて身なりを整えてから、畑で盗んだハーブを添えて彼女 に贈ったが、彼女はその畑の持ち主の娘だったそうだ。

 アンジェロは明るくなった。病気をする前の、学生だった頃そうだったように明るくなった。
 だが、俺が安心するよりも早く、やつは洗面所でペティーナイフを使って髪を切り、頭皮から血を流しながら自分の顔をスケッチして俺をびっくりさせた。
「正気か、アンジェロ」俺は引き攣った顔でそう言う事が精一杯だった。
「馬鹿言え」アンジェロは答えた後、何気なく言った。「一番長い所で三インチは切ったぜ」

 俺は夜遅くまで小説を書き続けることが多くなった。清掃員の仕事は不定期になった。
 やがて俺の生活は昼夜が入れ替わり、同じアパルトマンに住んでいると いうのに、アンジェロと会話をすることが少なくなった。毎晩最小限の明かりだけをつけて窓際に行き、タイプライターを使って小説を書いた。
 アンジェロは大 抵、穏やかな顔をして眠っていた。

 締め切りを過ぎはしたが、どうにか仕事を終えた俺は、半日ほど眠った後、珍しくアンジェロと時を同じくして起きた。
 やつ もそのことに気が付いたらしく、俺を見てくすくす笑った。
「何が可笑しい」俺も笑いながら言った。
「可笑しくてたまらないよ」アンジェロは声を上げて笑った。「お前の寝顔ばっかり、何十枚も描いたんだぜ」
「寝顔!」俺は飲んでいた水を噴出しそうになった。
「見せてやるよ、ほら!」やつがベッドの脇に重ねてあった、画用紙の束をばら撒いた。それらは見事に床の上に散った。
 顔から火が出る思いだった。俺、俺、また俺―全ての画用紙の上に、無防備な寝顔を曝け出している。
「ああ、くそ。アンジェロ。お前は・・・」
「そっくりだろ?」
「自分の寝顔のことなんざ知るか。アンジェロ。お前、女に振られて当然の男だ」
「当然だ!分かってるよ!」いきなりアンジェロが叫んだので、俺は思わず肩を竦ませた。「でも僕は止められない!それに、今は女の子なんかどうだって良い よ!」
「好きなだけ言ってろ」俺はやつの肩を優しく叩いて言ってやった。
 やつの中の狂気は兆候すらなく思えた―アンジェロは俺に短く礼を言ってうなづいた。

 俺の剃刀を使って頭髪を剃りあげた朝、アンジェロは不意に震えだし、息も絶え絶えな様子になった。俺はすっかり動転し、やつを引き摺るようにして医者の 所まで連れて行った。
 しばらくすると、アンジェロは落ち着いて、それからぐったりとなった。
「過呼吸を起こしただけだよ」医者はそう言った後で、俺を不審げな目つきで見た。「あんた、こいつを虐待でもしてるのかい?見るからに不健康じゃないか」
「昔、大きな病気をしたんだ。そのせいで、今でも―」俺はありのままを言ったつもりだったが、後半は定かではない。
「先生、いいんだよ」なおも何か言おうとした医者を、アンジェロが制止した。「この人の言う通りなんだ。僕は少し・・・どうやら頭がいかれてるみたいで さ」
「感情の波が高すぎる」俺は付け加えた。
 医者は急に俺に同情的になり、療養所の場所を教えてくれた。アンジェロは海沿いにある療養所で静養することになった。そこには当然ながら、何人かの医者 もいた(そのほとんどが精神科医だった)。
 その日の晩、アンジェロは不気味なほど落ち着いて見えた。やつは荷物をまとめながら鼻歌を歌っていたが、それを終えると、唐突に俺の肩に頭をぶつけてき た。「毎日お前の絵を描くよ」アンジェロの眼は閉じられ、頬は緩んでいた。
 俺はその頭に頬擦りして言った。「お前は自分の絵を描いてればいい」

 週に二度、俺はアンジェロに会いに行った。その度にやつは俺にポートレートを渡した。俺の顔のと、やつの顔のと、二種類があった。俺の顔は、毎朝鏡で見 る顔よりも、俺に似ているような気がした。
「お前の顔を描いた次の日に、僕の顔を描くんだ。その次の日に、またお前の顔を描くんだ」アンジェロはそう解説した。
 俺が会いに行くとき、やつは決まって具合が良さそうに見えたが、そのことを言うと医者は首を横に振った。
「日によって良かったり、悪かったりだ。あんたがくる日になると明るくなるようだが。・・・精神病患者なんてそんなもんだ」
 俺は療養所の中が好きではなかった。他のやつらがいて、大抵やつらはアンジェロよりも具合が悪かったからだ。だから俺は、よくやつを連れて海辺まで足を 運んだ。やつはほとんど何も言葉を発さず、一人で砂を弄くっていた。俺は乾いた白い流木に腰掛けて、それを見ていた。
 アンジェロの髪は、年齢と不釣合いなほどにまで白くなっていた。以前俺の剃刀で剃り上げたときから二インチほど伸びていたが、光に当たると頭の形が透け て見えた。
 大病を患って以来どす黒かったアンジェロの肌は、長い療養所生活の間に、いつの間にか青白くなっていた。髪の色もあってか、やつはすっかり俗世離れして 見えた。
 アパルトマンに戻ると、俺はアンジェロから渡されたポートレートを壁にピンで留めた。やつのポートレートだけを留めた。

 ある日の夕方、療養所からアパルトマンに戻ってきて、アンジェロのポートレートを壁に留めていると、ついに壁の右下まで到達した。
 俺は反対側の壁にもたれかかって、この一連の作品を眺めていた。すると、不意にいくつかの言葉が思い浮かんだので、慌てて机の上の画用紙―アンジェロが 描いた、俺のポートレートだった―から一枚を取り上げて裏返し、ボールペンでそれらを書き殴った。
『変化。浄化。あるいは昇天』

 それから三日後、俺はアンジェロに会いに行った。海辺に出て、アパルトマンの壁の一面がやつのポートレートで埋め尽くされたことを告げた。「あんまりに も見事だったから、お前にも見せてやりたい。それで・・・そうだ、名前を、アンジェロ。題名を思いついた」俺は横に座っているやつの横顔を見ながら言っ た。
「知りたいな」アンジェロが乾いた流木の上に仰向けになった。
 俺もサンダルを脱ぐと、仰向けになった。「いくつかある。・・・『変化』」
 アンジェロは上空を飛び回る海鳥を見上げていた。
「・・・『浄化』」
「それから?」
「『昇天』だ」
「最後のがいいな」アンジェロはそう言った後、わずかに顔をしかめた。「シャツの中に、砂が入っちまったよ」
「脱いで叩け、アンジェロ」
 やつがシャツを脱いだとき、痩せて青白くなった背中が見えた。
 別れ際に、やつは唐突に「『堕天』だよ」と言って、俺をびっくりさせた。
「何だ?」
「今のが『昇天』なら、前に壁が埋まったときがあるだろ。あれは『堕天』だ」
「捨てちゃ悪かったみたいだな」
「いいんだよ」アンジェロは俺の腕を擦りながら言った。「なあ、今度くるときは睡眠薬を持ってきてくれないか?」
「何で」
「横のやつがね、夜になるとうるさいんだ。お陰で眠れなくってさ」
「分かったよ、アンジェロ。次持ってくる」
 そのときの俺は数日以内に持って行くつもりでそう言ったのだが、その後思いがけず仕事が重なった。結局療養所に行ったのは、それから一週間後のことだっ た。
 やつは青い錠剤が入った薬瓶を陰鬱そうに眺めた後、小さな声で「ありがとう」と呟いていた。

 忙しい仕事が一段落ついて、どっと疲れが出た俺は、療養所を訪れたものの、どうやらほとんど眠りかけていたらしく、アンジェロに笑われた。
「分かるよ、疲れてるんだろ。僕のベッドを使いなよ」やつはくすくす笑いながら言った。「今は一人部屋だし、邪魔も入らないさ。それに、僕は最近ぐっすり 寝てるから」
 俺はありがたくやつのベッドに潜り込んだ。以前嗅いだことのある匂いがしたので、窓辺を見ると、ハーブが花瓶に入れて飾ってあった。
「アンジェロ。窓辺のハーブはどうしたんだ?」俺は半分眠りに落ちながら言った。
「ここの庭で摘んだ」アンジェロの声が耳元で聞こえた。「僕は絵を描いてくるよ。おやすみ。・・・じゃあな」
*
 白い服を着たアンジェロが、灰色がかった砂色の浜辺を歩き回っている。やつの上空を海鳥が飛び回っている。
 やつは全身が白っぽく見える。手に持っている、細い流木を集めた束でさえも白い。
 あまりにも幻想的な光景なので、俺はこれが夢じゃないかと疑い始めている。
*
 体を揺さぶられ、俺が慌てて飛び起きると、見慣れない中年女―看護婦がい た。
「外を見なさいよ。あの子・・・あんたの知り合いでしょう。何やってるんだか・・・」
 俺は窓から身を乗り出したが、びっくりして言葉を失くした。
 白い部屋着姿のアンジェロが、細い流木を束ねて筆にし、波打ち際の浜辺にやつの顔を描いていた。絵はざっと数フィート四方の広さがあったが、ほとんど完 成していた。
 アンジェロは、最後の線を描き終えたらしく、流木の束を海に投げ込むと、一歩下がって作品を眺めた。それから俺を見た。離れていて、やつの表情までは分 からなかったが、緩慢な動作で俺に手を振った。次の瞬間、まるで強風に煽られたかのように、仰向けに倒れた。
 俺は療養所を飛び出して、やつの元へと急いだ。砂浜では、一度砂に足を取られて転んだ。
 ようやく辿り付いたとき、やつは既に意識を失っていた。穏やかな表情をしていて、口は少し開いていた。上半身が打ち寄せる波に洗われていた。
「アンジェロ」俺は砂の上に膝をつき、やつの上体を抱きかかえた。「アンジェロ」頬を叩いたが、反応はなかった―昏睡していた。
 俺はやつの耳元で怒鳴った。
「・・・アンジェロ!」

 俺は泣き笑いすることしかできなかった。
 アンジェロは眠ったまま逝った。後で医者から、大量の睡眠薬を飲んで、自殺を図ったのだろうと聞いた。

 司法解剖のために切り開かれた後、元通りに縫い合わせられて戻ってきたやつの死体の傍で、半ば放心して椅子に座っていた俺を現実に引き戻したのは、複数 の足音だった。
 遺体安置所のドアを開けて真っ先に入ってきたのは、会ったことのない女だった。長い黒髪を強くカールさせていて、化粧も濃く、擦れた印象を受けたが、ま だ三十歳にもなっていなさそうな感じだった。彼女の後から入ってきたのは、小さな女の子を抱えた、アンジェロのおやじだった。俺は二、三度会ったことが あったが、いつもこいつとアンジェロは本当に親子なのだろうかと訝しんだ。それほどに、やつとの共通点を見出すことは難しかった。やつは、お袋さんそっく りだった。
 女はアンジェロの髪をそっと撫で、「真っ白じゃないの」と呟いてから、アンジェロのおやじのほうを向いた。「ねえ。元は何色だったの、あなた」
 アンジェロのおやじが黙ったままだったので、俺が代わりに答えた。「栗色だった」
「そう」女は俺のほうを見て頷いた。「・・・きれいな子」
 小さな女の子がその言葉を繰り返して、「きれい」と言った。
 女は、「あなたのお兄ちゃんよ」と女の子に言った。二人は親子のようだった。女の子は母親似だった。
「あなたをお空から見守るために、死んだのよ」女はそう言った後、淡々と俺にアンジェロの葬式の日程を告げて最後に、「無理してこなくていいのよ」と付け 加えた。
 俺はアンジェロのおやじを見たが、目を逸らされた。「絶対に行くよ、やつにさよならを言いに」視線を動かさずに言ってやった。

 アパルトマンに戻ってから、俺はアンジェロの遺品を整理した。
 やつの持ち物はびっくりするほど少なかった。いくらかの服と画用紙が数束、そして何本かの木炭だけだった。それらを全部一まとめにした。次に、机の上に 重ねて置かれた、俺のポートレートを束ね、それも遺品の包みの中に入れた。それから、壁一面にピンで留められた、やつのポートレートを眺め、しばし考え込 んだ後、結局そのままにしておいた。
 その日の晩、俺は一晩中起きていたが、もう涙は出てこなかった。

 俺は黒い喪服に身を包み、アンジェロの遺品を携えて、葬式の始まる数時間前に教会に行った。やつの棺の傍には、やつのおやじと、その新しい妻子しかいな かった。やつのおやじは声を殺して泣いていた。女は黙って棺を撫でていた。女の子は無邪気にその周りを飛び跳ねていた。
 俺はやつの遺品を棺の中に入れた。それからやつの死に顔を眺めた。アンジェロは、青白さを通り越して白かった。死装束も白く、最後の姿を思い出させた。
 女が娘を抱えて棺の傍を離れ、俺とアンジェロを二人きりにしてくれた。やつのおやじは、いつの間にか姿を消していた。
 何かを言おうとしたわけではなかったが、言葉が出てこなかった。代わりに、やつの額と唇の両脇に永別のキスをした。そしてそのまま教会を後にした。
 やつのおやじが、境界の裏の墓地で、独り泣き崩れていた。俺は声もかけなかった。
 
 アパルトマンに戻る前に、俺は療養所から見えていた海辺に行った。しばらく砂浜を歩いた。当然のことながら、やつが砂に流木で描いたセルフ・ポートレー トは、波に消されていて、見つけ出すことができなかった。
 俺は波打ち際に足を投げ出して座った。両手を前後に動かし、砂の上に筋を描いた。打ち寄せる波がそれを消した。また筋を描いた。すぐに波に消された。何 度やっても、筋を描いた痕跡は残らなかった。
 下半身が打ち寄せる波に洗われていた。立ち上がったときに、足が冷えていたせいで少しよろめいた。俺は砂のついた手で顔を覆って泣いた。白い服に身を包 み、上半身を波に洗わせていたアンジェロと、今こうして、黒い服に身を包み、下半身を波に洗われている俺は、ひどく対照的だった。

 アンジェロのいない生活は、俺に虚ろな開放感を与えた。俺は三流タブロイド紙に載せる小説を書いて日々を過ごしていた。
 あるとき、やつの話を書こうとしたが、結局止めた。どんな小説になるのか、なんとなく見当はついていたし、もしそれが正しければ、俺はそう言った類の小 説は嫌いだった。うんざりだった。

 壁に留められたアンジェロのポートレートは、そのままにしておいた。執筆活動が深夜に及び、集中力が途切れてきたときによく眺めた。ありとあらゆる表情 の、俺が今までに見てきたすべての表情が、そこにはあった。笑っているアンジェロ、悲痛な面持ちのアンジェロ、無表情なアンジェロ、そして、涙を流してい るアンジェロ―線のタッチまでが違っていた。俺はやつの剥き出しになった感受性の鋭さと、それゆえの精神の脆さを垣間見た気がした。

 時々、嫌な夢を見ることがあった。その夢の中で、俺は海辺の砂浜に裸で横たわり、動こうとしているのに、指一本も動かせずにいる。アンジェロが俺の頭の すぐ傍に座っている。やつはやつのセルフ・ポートレートが描かれた画用紙をばら撒き、俺をすっかり埋めてしまおうとしている。やつの顔が波のように押し寄 せてきて、いつもそこで目が覚めるのだった。
 そんなときは、決まって俺はやつと出会ったことを後悔し、神様を呪ったが、ある日を境に感謝の祈りを捧げるようになった。それは俺がやつの短い物語をタ イプ原稿として仕上げ、鍵のかかる引き出しの奥にしまった日のことだった。


2006.10.07 輝扇碧