我が愛すべき友人にして同居人でもある、甥のフアン=マリが塞ぎこんでいる。
 今年で二十五になる彼は伸び放題の暗い色をした髪と、どこか目線の定まらない灰色の瞳の持ち主で、大理石の胸像のような整った無表情が印象的な男だ。口 を開くとき以外は、大抵いつも同じ顔をしている。

 彼はいつものように朝のミルクコーヒーを飲みには来たが(我々はここらの人々が皆そうであるように朝食をほとんど食べず、代わりに朝の十時頃に軽食をと ることにしている)、軽食の時間になっても部屋から出てこなかった―いつもは呼ばれる前に出て来るのだが。
「おいフアン、寝ているのか?」私は彼の部屋のドアに向かって呼びかけた。「腹が減っているだろう」ドアの向こうで何やら動く気配がしたが、返事はなかっ た。
 私は溜息を吐き、「ジャン」と呼びかけた(七年前まで母親と一緒に隣国に住んでいた彼は、向こうではジャンと名乗っていたらしい)。「食べに来ないの か、ジャン?」
 それでも返事はなく、私はしばらくドアに体を押し付けて待った。やがて、ドアに内側から力が加わる感触があったので体をのけた。ドアが開いた。
 下着姿のフアン=マリはどうやらベッドに入っていたらしかったが、寝るときにはつけているはずのヘアバンドをしておらず、くせの少ない髪が鼻の下まで垂 れていた。
「寝ていたのなら、起こしてしまった。悪かったな」私は彼の顔の上半分を覆っている長い前髪をかき上げて表情を窺ったが、いつものように無表情だった。
「起きてたんだ」彼はそう言って私の横をすり抜けた。「ベッドの中で、内省したい気分だったんだよ」

 一足先に食べ終えた私は、椅子に体ごと押し込むようにして座りパンを食べるフアン=マリをテーブルを挟んで眺めていた。つくづく父親に似たものだと思わ される。彼の父親は私の兄で、私とは十年以上も年が離れていた。七年前、抗議行動中に警官と衝突して死んだ。そのとき彼は四十二歳、私はまだ三十歳にも なっていなかった。彼は(私とは違い)かなりの美男で、ミケランジェロの彫刻のような顔立ちをしていた。それには劣るものの、このフアン=マリも確かに父 親の美しさを受け継いでいる。
 フアン=マリが食べ終わり、椅子の上で膝を抱えた。私は話し掛ける時機を窺っていたのだが、その前に彼のほうから口を開いた。
「今ノヴェル(小説)を書いてるんだけど、たまらなくなっちまって」
 私はテーブル越しに彼の前髪をかき上げてやった。「それで塞ぎこんでたのか」
「まあね」彼は若干鼻にかかるような印象を受ける発音で言った(ここに来て七年経つが、未だ向こうの訛りが抜け切っていない)。「俺、これ以上作品が書け ないような気持ちになってきたんだよ」
「ほう?今書きかけてるのは、どんなのだ」
「自分のことだ。だからかな、書けば書くほど自分の中身が空っぽになっちまう気がしてさ」
 彼は昔から小説や詩を発表していたようだったが、最近ではそれを仕事にしている。私はと言えば、週に五、六日清掃員の仕事をしている。今日は休みだ。
「名前は忘れちまったんだけど、誰か画家だったかな?そいつが言ってた。『苦しいときに絵を描くと、その苦しさが消える』って。俺もそう思う」フアン=マ リは続けた。「苦しいことや悲しいことを人に話すと楽になる。消えちまうことだってある。でもさ、それは嫌なことに限ったことじゃないって思うんだ」
 私は軽く頷き、外を見た―いい天気だ、いつものように。「なあフアン、外にでも行こうか?お前ずっと内省していたら苦しいだろう。外の空気を吸いに行こ う」
 彼は同意し、着替えるために部屋へと戻っていった。

 外は相変わらず暑い。人々はもう少ししたらシエスタ(昼寝)を始めるだろうが、普段の私はその時間も働いている。
 私とフアン=マリは噴水広場の方へと歩いて行った。彼はヘアバンド代わりに、頭に地味な柄のバンダナを巻き、長い前髪が顔に垂れて来ないようにしてい る。そのお陰で、目元が随分と明るく見えた。
 噴水広場には、観光客の姿が疎らにあった。フアン=マリがポケットから硬貨を出し、彼らがやるように噴水の中に投げ込んだ。
「ここじゃ話しにくいか」私は尋ねた。
 彼は噴水の中の硬貨を見ながら返事した。「いや、そんなことない」
 我々は噴水の縁に腰掛けた。すぐに背中が霧状になった水で湿ってきた。「冷たくて気持ちいいね。でも、帰る頃には乾いてるかな」彼が言った。
「話の続きを?」私はポケットから煙草を取り出し、火を点けて銜えた(彼にも勧めたが、彼は断った)。
「うん。俺はさっき、何でも人に話すとどんどん薄れてくってことが言いたかったんだ」フアン=マリはそう言った後、私の口元を目で示した。「ザビーノ、消 えてる」
 私は煙草を足元に捨てた。「続けないのか、フアン」
「ああ、続けるさ。苦しいこと、楽しいこと、俺自身のこと・・・。全部そうだ、書くたびに薄くなってる。消えることもある。俺は今、自分のことばっか書い てる。今書きかけのがそうだ。それで、そいつを書いてるとき、ふっと思ったんだ」
 一人の観光客が我々に声をかけてきた。バックパックを背負い、よく日に焼けた金髪の男で、噴水を背景に写真を撮ってくれとい言うのだ。
「私が撮る」そう彼に言って、私は観光客からデジタル・カメラを受け取った。シャッターを押そうとしたとき、後ろからフアン=マリが、「縦向きの方がいい よ、ザビーノ」と呼びかけたのでその通りにし、観光客と握手をして別れた。
「さて、邪魔が入ったが」
 件の観光客が立ち去った後、私は再び噴水の縁、我が愛すべき甥の横に腰掛けた。「フアン、お前はその小説を書いているとき、どう思ったんだっけ?」
「うん。何て言うかさ、こいつを書き上げて発表したとき、俺はどうなっちまうんだろう?そう思ったんだ」彼は整った無表情のままで言った。「相当入れ込ん でるから、反動も大きい。多分、抜け殻になっちまう。もしこのまま書くことを続けたとしたら、ザビーノ位の年になったときには、きっと俺の中身はすっから かんさ」
 私は足元の吸殻を爪先で弄び始めた。「人は内省すればするほど、限りなく奥に引っ込んでくぞ」私は続けた。「ジャン、お前は出て行く一方の人間なの か?」
「いや。でも出てく方が多いかもしれない。俺、ノヴェルを書くときって今までの体験を総動員してるからさ」
「これからはこれからの体験も加わるだろう」私は彼のシャツの中に入り込んでしまっている髪をそっと引っ張り出してやった。「それで、お前はその小説を発 表する当てはあるのか?」
「まあね。だからこうやって、色々考えてたんだ」フアン=マリは立ち上がった。「でも一区切りついたよ、ザビーノ。しばらく書いてみる気になった」
 私も立ち上がり、手の甲で顔を拭った。汗の代わりに、霧状になった水で濡れていた。「シネ(映画)でも観に行くか?」同じく顔を拭っている甥に尋ねた。
「今は何も面白いのがやってないよ」彼は大きく息を吐いた。
 七年ほど付き合って来て分かったのだが、我が愛すべき友人にして同居人でもある、甥のフアン=マリは思っていた以上に内省的な人間だ。私が仕事に出てい るときも、きっと今朝のように、自分の部屋にこもりがちになっているのだろう。外に出ると印象が変わる。目元が明るくなり、整った無表情が一層際立つが、 決して不健康そうには見えない。こっちの方が彼の父(つまり、私の兄)に似ている。
 我々は歩き始めた。フアン=マリが腹が減ったと言い出した。
「今日は外で食おう」私はそう言った。彼も同意した。


..2007.01.14. 輝扇碧
Juan Mari:Mi sobrino querido