男は返り血で汚れたジャケットを脱いで、ゲイブのところに行った。ゲイブは安ホテルの一室にかれこれ半月以上居座っている、彼の友人だった。
「ゲイブ・・・ゲイブリエル・・・。俺だが、入っても?」彼はドアをわずかに開け、チェーンロックの隙間から室内に向かって呼びかけたが返事はなく、代わ りに咳き込む音が聞こえただけだった。それが止むまで待った後、彼はもう一度同じことを言った。「ゲイブ、入っていいか?俺だ」
「“俺”?そいつはよく分かった。でも、どこの“俺”だ?」
 チェーンロックの間からは薄汚れた壁しか見えない。男は隙間から忍び込ませた右手でロックを外そうとしたが、敵わなかった。「ゲイブ、俺だよ・・・忘れ ちまったのか?アレックスだ」
「サンディ!」ゲイブの声が急に甲高くなったかと思うと、男の元へとよろめくようにして歩いてきたのが、足音で分かった。「俺としたことが・・・今開ける から!」彼は男の右手を叩いた。「とっとと引っ込めな、外せねえだろ!」
 大きな音を立ててドアが開いた。男はゲイブの姿を見て、しばし沈黙した。酷くなっている―前回会ったときよりも、さらに痩せこけていた。「ドラッグはも う止めたんじゃなかったのか?」
「止めたぜ、リハビリ施設にぶち込まれてた間はな」
「しっかりしてくれ」男は左腕をかばうようにして、壁に体を押し付けた。骨折していた左腕は、ギプスは外しているもののまだ動かずと痛むのだ。「ゲイブ、 お前・・・数ヶ月前まではドラッグに縁すらなかったって言うのに」
「今はもう悪友だよ。そればかりか、今度は煙草を吸う癖までついちまったぜ、全く・・・。とりあえず、煙草でも吸いながら話そうぜ。入れよ!」
 部屋に入った男は、室内を見回した。予想通り、そこは立派なジャンキーの部屋だった。散らばった注射器、ライター、スプーン、アルコール、錠剤、白い粉 の入ったビニール袋―全て彼の嫌っているものだった。「畜生」彼は呟いた。「ゲイブ、お前・・・」
「サンディ、あんたその腕どうしたんだ?弟にでもやられたか?ニッパーの奴、中々やるじゃねえか・・・」
「違う!」男は右腕だけで、ゲイブが着ているTシャツの胸元をつかんだ。「ニッパーは殺られたんだ・・・俺の左腕を折った奴らにな!」
「おいおい、落ち着けよ・・・。クスリ絡みは怖えよな」ゲイブが自嘲気味に笑った。その笑みは、昔彼らが孤児院にいた頃と同じものだった。
「シスター・アンリを覚えてるか・・・?」男はゲイブを突き放すと、ベッドに腰を下ろしてジーンズのポケットからキャメルの箱を取り出し、一本くわえた。 ゲイブが火を点けてくれた―気が利くところは変わっていなかった。
「覚えてるぜ。髪をブロンドに染めてただろ?」
「お前がジャンキーだと知ったら、心配するだろうな」
「俺はジャンキーだよ」
「彼女、ニッパーのときも心配していた。・・・最近は連絡を取っていないがな」
「俺のこと言うなよ、サンディ。ろくな話じゃねえ」
「ゲイブ」男は溜息と共に煙を吐き出した。「俺は、ジャンキーが、嫌いだ」
「でも、ニッパーは別だったろ」ゲイブは煙草を持った手をひらつかせていたが、不意にその手を止めた。「サンディ、あんた血がついてるぜ」
「俺のじゃない」
「なあ、俺らの中でまともに生きてる奴がどれだけいるんだ?」彼は自嘲気味な笑みを浮かべた。「ニッパーはクスリ漬けの売人になって殺られ、チャベスは不 法移民の女やガキ共を、助ける振りして売り飛ばしてる。俺なんざ・・・見ろよ、立派なジャンキーだぜ。はは、は・・・」
「俺だって、もうまともじゃないさ」男はジーンズに散った血痕を見ながら言った。「ジャンキーを殺った・・・ニッパーを殺した奴の仲間だ」
「道理で血生臭いわけじゃねえか!」ゲイブは叫ぶなり、後ずさった。開いた瞳孔の目で男を見つめ、恐怖から大きく息を喘がせた。「俺も、俺も・・・殺るの か?え?サンディ。それだけは止めてくれよな・・・なあ。どうせ死ぬのは分かってるんだよ。でも、今死ぬのはごめんだぜ」
「まさか。これ以上・・・罪は重ねない」男はジーンズのポケットに固い感触を覚えたので、手で探った。顔馴染みだった牧師に貰った小さなロザリオだった。 彼はその鎖を右手で持ち、ゲイブの眼前に垂らした。
 ゲイブはそれに縋り付いた。「ああ、神様。神様」
「お前にやるよ、ゲイブ」男は優しい口調で言い、手を離した。「持っててくれ・・・お前が」
「あんた、自首するのか?」顔を上げたゲイブが尋ねた。「俺からすりゃ、馬鹿のやることだ。でも・・・あんたらしいぜ」
 男は時計を見た。彼が殺人を犯してから、既に数時間が経っていた。「・・・そろそろ行かないと」
「俺達、もう会えねえかな?」ゲイブが煙草を灰皿に乗せた。「俺、ムショに入らないように努力するぜ」
「そうしてくれ。その方が俺も嬉しい」
「なあ、サンディ。俺がジャンキー止めれると思うか?」
「お前次第だろ、そんなの」男も煙草を灰皿に押し付け、そのまま捨てた。「もう行かないと」
「サンディ」ゲイブがよろめきながら男の肩をつかんだ。「俺の人生、中々だったぜ。何せあんたに会えたんだ。・・・じゃあな、頑張ってムショの扱きに耐え ろよ」
「ああ」男はドアを押して開けた―ゲイブは閉めていなかったらしい。「ゲイブ・・・」
「ん?」
「俺を忘れてくれ、これからは」
「俺は誰を頼ったらいいんだ?」ゲイブが顔を歪めて言った。
 男はドアを閉める瞬間、微かに笑った。キャメルの箱を置きっ放しにしてきたのだ。だが、どうせもう吸うこともないだろう。ニコチン中毒にならなくて済む のは彼にとっていいことだ―なぜなら、彼はジャンキーが嫌いなのだ。


..2006.11.29. 輝扇碧
ジャンキー