The Abandoned


 クリスマスを過ぎても、街はその輝きを失わない。あと数日もしないうちに、ニュー・イヤーのご到来だ。人々は浮き足立っている。
 ジャズ・ピアノに合わせて女が歌っている。"グッド・バイ、クリスマス!ハァイ、ニュー・イヤー!ずっと待っていた・・・"
 彼女は素晴らしく優雅に身をひねり、俺の方を向いた。少し厚化粧なのは否めないが、いつ見ても魅力的だ。アイラインに縁取られた大きな目。深いマリンブ ルーの瞳が瞬き、稲妻のようなウィンクを俺に飛ばしてくる。
 俺は短くなったタバコを噛んだ。いつもだったら、もっとましなこともできただろうに。陶然としたような表情を顔に浮かべて見つめてやったり、興味がない 風を装って、鼻で笑ってやったりすることも。
 だが今の俺はそんな気持ちになれずに、浮き足立った人々の中で一人沈み込んでいた。

 俺は今、明らかにこの場にそぐわないスポーツバッグを持っている。
 中には爆弾が入っている。肩にずしりとくるほどの重さだ、このちっぽけなバーは吹っ飛んでしまう・・・スイッチを押すだけで。
 ちくしょう・・・。俺は"指導者"に毒づいた。最後の仕事なんだ、サー。もっとましなバッグに入れてよこせ。クリスマス・シーズンに合わせて高いスーツ を新調したし、靴だってこの前買ったばかりだ。シャツにアイロンはかかっていないし、ネクタイはポケットの中だが、髪を切っただけでなく髭まで整えた。最 後の夜にふさわしい身なりをしてきたっていうのに、このバッグじゃあ・・・。
 タバコを噛み切った拍子に灰が唇に触れ、俺は危うく火傷しそうになった。
「ちくしょう!」俺の声に反応したかのように、携帯電話が鳴った。この電話にかけてくる奴といったら一人しかいない。
「サー?」
「着いたか」
 俺のことなんか気にもかけていないような淡々とした"指導者"の声は、いつだって俺を惨めな気持ちにさせる。その惨めさが俺の声を掠れさせ、怯えた響き を伴わせる。
「ええ・・・着きました。今、中にいます」
「計画に変更はない」電話が切れた。
 俺は携帯電話の顔を電源を切ると、そのまま二つに折った。
 サー・・・。俺は彼の顔を思い浮かべた。指示されたことは終えました。後はあなたの命令だけだ・・・。
 腕の時計―これを買うだけでカードの利用限度額に届きかけた―を見ると、時間は刻一刻と迫ってきていた。
「くそ」俺は歯軋りした。「早すぎる」
 まだ気持ちの整理がついていない。安定剤でも欲しい気分だ。
 バーの中を見渡すと、一人の女の姿が目に入った。クラシカルな装いをしているが、顔つきはまるで少女だ。人のよさそうな顔が俺の心を揺さぶった。まず い・・・。
 俺に悪魔が囁きかける。"サーとの交信手段は途絶えた。あいつが知るのは爆発したという事実だけだ・・・"

 オフィス・マンをやっていた俺が彼"指導者"に会ったのは数年前のことだった。俺とは明らかに違う―多分アジアの血が入ってるんだろう―涼やかな目元 は、俺を虜にした。
 俺はいわゆる「上司と部下」の関係を超えた親しい付き合いがしたかった。なぜなら彼はとても知的で博識だった上に、俺に後について行きたいと思わせるよ うな魅力的な人物だったから。
 だが、俺の考えを知るや否や、彼は豹変した。俺に向けられたのは銃口と誓約書だった。
「そこまで望んでいるのならば」
 気がつくと、周りには一目でギャングだと分かる男たちがいた。
「私の後についてこい。そのかわり」
 俺は取り巻きに脅されてサインせざるを得なかった。もう後戻りはできない・・・そう思った。"指導者"は俺に俺の人生を決定づけさせた。
「お前の命は私の・・・主人の手の中にあるも同然だ」
 俺に残されていたのは死、もしくはこう答えることだけだった。「・・・イエス、サー」
 その日以来俺は一丁の拳銃と体ひとつで、どこへでも行くギャングの運び屋になった。そして、彼に呼び出されたのが今日のことだった。

「『爆弾を運んで、バーで自爆しろ』か・・・」
 俺は俺の運命を決定づけた一言を反芻した。いくらか落ち着くかと思ってやったことだったが、間違っていたようだ。"やるのか・・・?"視線を泳がせると さっきの女と目が合った。
 困ったことに、彼女はその唇に人のよさそうな笑みを浮かべて俺に笑いかけた。
 もう我慢できなかった。体が小刻みに揺れだしたのが分かった。彼女がやってくる・・・人好きのする笑みをその唇に浮かべて。
「どうかなさいました?」
 次の瞬間、俺は冷酷で愚かな自己中心主義者に成り果てていたが、必死にそれを隠した。
「すみません・・・」
 俺は眉間を押さえ、気分を悪くした男を装った。「気分が悪くて・・・」
「人を呼びましょうか?」
「いいえ、結構です。・・・ですが」
 俺は大きく息を喘がせ、不審に思われないように、ごく自然に出てきたかのように言った。「トイレに行きたいんです。すみませんが・・・その間こいつを見 張っててもらえませんか?」
「まあ」彼女は大きく頷いた。「どうぞどうぞ」
「ああ、ありがとう」
 俺は顔を見せないよう彼女に背を向けた。
 トイレの方へ行きかけた時、耳に覚えのない電子音が響いた。
「あの・・・?」
 女が俺に呼びかけた。どうやら俺の鞄から聞こえているらしい。
 俺は返事をすることができなかった。
 ジャズ・ピアノの響きに合わせて女が歌っている。"・・・ニュー・イヤー!ずっと待って・・・"
「何だって?」ようやく言葉が口から出たと同時に、反射的に俺は地面に伏せていた。急に体勢を低くした俺を気絶して倒れたとでも勘違いしたのだろう、女の 悲鳴と助けを呼ぶ男の声が聞こえた。
 かちりという耳障りな音が俺の耳を貫いた。
 俺を抱き起こそうとする手を払いのけようと手を上げた時、轟音と熱風が俺の意識を飛ばした。


 頭の中でジングル・ベルが鳴っている。俺に子供がいたならば、こいつが聞こえる頃にはもうクリスマスプレゼントを選び始めなけりゃいけない・・・
 体の表面がじんじんする。まるで裸で外の雪の上に寝そべっているかのように。右手と腰から下の感覚がない。
 くそっ、何なんだ?
 声が出てこない。ドライ・アイスでも飲み込んで、喉が凍ったようにすら思える。
 俺は目を開けたが、ほとんど真っ白にしか見えなかったので最初は雪の中に埋もれてしまったのかと思ったほどだ。
 不意に俺の耳に、あまりにも聞きなれた音が聞こえた。鋭い靴音。あれは底にナイフを仕込んでいる靴で歩くからだ。・・・サー!
 俺の世界に痛みが生まれ、俺の目はかろうじてぼやけた像を結んだ。炎を浴びて体のかなりの範囲を火傷し、今は外の冷たい雪の中に埋もれている。煙か炎か 分からないが、吸い込んでしまったらしい。右手と腰から下は瓦礫に埋もれてしまって見えない。あちこちで炎が上がっている。
 逃げ惑う人々の悲鳴や取り残された怪我人の呻き声が聞こえる。俺の"指導者"はいつもとなんら変わらない様子でそこに立っていた。
 サー・・・。俺は唇を動かした。まともには見ることのできない目を動かした。サー、俺にはできませんでした・・・。
 俺を虜にした涼やかな目元は今、俺だけに向けられている。俺だけを見ている。
 俺はその視線の冷たさに体を痙攣させた。胸の奥で嫌な音が鳴り、俺は咳き込んだ。何度か弱々しく咳き込んだ後、かろうじて掠れた声を絞り出すことができ た。
「俺・・・の・・・"指導者"・・・」
 彼が俺から視線を逸らすのが見えた。いつもの彼となんら変わらない動作だった。
 俺の耳に聞こえてくる足音は次第に小さくなっていった。瓦礫を踏む、鋭い靴音が遠ざかっていく。
 視界の隅まで炎がちらつき始めていた。
 俺は始めて恐怖を覚えた。火がどんどん迫ってきている。きしむ肺が再び煙を吸い込む。目を閉じていれば裸で雪の上に転がっているようだったが、恐怖はそ の幻想までも打ち砕いた。
 俺は俺の指導者に、見捨てられたのだ。


2005.12.28 輝扇碧