An Old Friend

 私の目の前を老人と幼い少年が歩いている。
 老人は背が少し曲がっているものの、体格はいい。
 バットを片手に持った幼い少年が、老人の上着の左袖をつかんでいる。おそらく孫だろう。
 袖の中に腕はない様に見えるが、私はそれが肩から布で吊っているだけなのを知っている。
 それだけではない。私は腕が折れているのではなく、動かなくなってしまっていることも知っている。
 だが、私は現在の彼の顔を知らない。私の中の彼は、二十年前の記憶の中、しかめっ面をした無愛想な男の姿のままだ。

 彼は保険に入っていたが、その動かなくなった腕には保険が適用されなかった。
「申請しなかったのか?」私は彼に問うた。「勿体無い」
 彼は無愛想な表情のままだったが、気分を害した様子ではなかったのを覚えている。
「本当のことを言わなかったからさ」
 そのときの私には、彼が心の中で苦笑しているように思えた。
「普通に日常を送ってる奴は、こんな怪我なんかするわけないさ」呟くような声だった。
 真実を言わなかったのだ。言ったら工作員としての素性が知られてしまうが故に。

 老人と幼い少年はベースボール・スタジアムの方に歩いていく。孫の野球観戦に付き合うつもりなのだろう。
 受付でチケットを買うとき、老人はしかめっ面を見せた。二十年前の記憶の中と同じ、懐かしい顔だった。
 幼い少年が老人の胸ポケットから財布を取り出した。
 老人が頬を緩めたのを、はじめ私は信じることが出来なかった。私が彼と過ごした日々の中でも、一度たりとて見たことがなかった。個を殺していたかつての 工作員としての姿はなく、祖父としての顔があるだけだった。
 彼が私の方を見た。
 私と彼、二人の間に言葉はなかった。だが、私の旧友は、今度は私に向かって笑みを浮かべた。
 救われたような気持ちになって、私はその場を後にした。
 彼の顔には、片腕を動かないものにした、この私への非難は何一つなかった。
 きっと優しくて、少し無愛想な老人になったのだろう。


2006.04.05 輝扇碧