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 首から下を切られた女。首を切られたライオンの体。同じく豹の体。
「・・・テオ」
 浅い眠りから目覚めた男は、目の前の床に散らばっている雑誌の切り抜きに眉を顰めた。「俺の寝てる所にまで広げるな」
 彼がテオと呼んだ男はこちらに背を見せたままで、返事もしなかった。
「テオ・“アンドロギュノス”・・・」男は再び声をかけたが続きを言おうとする前に咳き込んだ。
 途端にテオの上体がわずかではあるが跳ね、顔が男の方を向いた。日焼けした肌と似たような色をした髪のせいか、男とも女とも取れない歪な顔の中で目だけ がくっきりと際立っている。彼は片方の眉だけを吊り上げていた。男の咳への不快感を顕わにしているのだ。「うるせえ」彼は囁くように言った。「その呼び方 は止めろ」
 男は体を起こすと、雑誌の切り抜き―女の首だった―を一枚摘み上げた。「おい、俺のところにまで広げるんじゃねえ」
「仕事だよ、仕事」テオは鋏を持ったまま、茣蓙の上で体を捻った。彼は男が未だその美しさとやらを理解できずにいるスフィンクスの置物の前に陣取っている のだが、茣蓙の上にも切抜きが散らばっていた。「言わなかったか、え?広告用のコラージュだよ」
「そいつは初耳だぜ」
「そうか。じゃあ、今言った通りだ」
「この紙っ切れをのけてくれ」男は白いままの台紙に目をやり、溜息をついた。「俺が見た所、中々進んでるじゃねえか」
「うるせえ!これっぽっちも思ってないくせによく言うな、え?」テオが一瞬顔を引きつらせた。
 男はそれを見て思わず身構えたが、幸いにもテオの癇癪が起きることはなかった。
「なあ、そうだよ。全く進んでないんだ。でも、イメージは固まってるんだよ。・・・そうだ、気分転換してくるさ」唐突にテオが立ち上がった。「外に行って くる。お前が吐くタバコ臭い息には、もううんざりなんだよ」
「ああ、じゃあ俺も行くぜ。なんせ邪魔な紙切れがあるからな」男はタバコのせいでひび割れてしまった声で笑い、テオよりも早く外を出た。
 しばらく外の空気を吸いながら歩いているうちに、男は胸の奥に違和感を覚え、歩く速度を落とした。絡んだ痰を道端に吐き捨てた。最近すこぶる調子が悪 く、喉の奥の違和感が消えない。以前のように咳き込んだ挙句に呼吸困難を起こす回数こそ減ったが、それは調子が良くなったからではない。自分を苛むような 咳の仕方を止めるようにと医師から言われたのを忠実に守っているだけのことだ。そう言えば、精密検査を受けるよう言われていたが、もう病院に行く気はな い。
 結局、男が行き着いたのは桜並木のある道だった。ちょうど花が満開で、観光客が多かった。所々で髪を高く結い上げ、おそらく日本の服をきた女を見かけ た。どうやらこの桜はこの国のものではないらしい。あるいは、桜そのものが外国からやってきたものなのか。
 タバコを吸いながら桜の下を歩いていると、見覚えのある姿を見つけた。薄い色の服に身を包んだ、日に焼けて均整の取れた体―テオだ。彼はいつも白い色、 もしくは薄い色をした服しか着ない。汚れがはっきりと見える色でないと駄目だそうだ。
 男は歩調を速めてテオに追いつくと、その背中を軽く拳で叩いた。「テオ」
 振り向いたテオの表情は硬く、微動だにしなかった。男の口元のタバコを見ても、いつもと違って、わずかに眉が動いただけだった。その心情を推し量ること は、まるで壁の向こう側を見るのと同じことにすら思えた。
「・・・お前がここにくるなんてな」彼の声も硬かった。
「何も考えずに歩いてたら、ここにきた」男は煙混じりの息を吐いたが風下にいたらしく、それは後ろに流れていった。「そう言えば、テオ。ここの桜はアメリ カのじゃねえらしいぜ」
「そうだよ」テオは冷ややかに言い放ち、男から離れようとするかのように歩幅を広げた。「この国にもとからあったものなんざ、今はほどんど残っちゃいね え」
「それはねえだろ」男も歩幅を広げた。「・・・それより、お前の仕事はどうして進まねえんだよ、テオ?」
「嫌いなんだ」テオが立ち止まった。「正直、断りたかったよ」
「嫌い?芸術崇拝者のお前の口から、そんな言葉が聞けるなんて・・・」男は声を立てて笑ったが、喉の奥で音がした―咳き込む前兆だ―ので眉を顰めた。次の 瞬間、彼は咳き込み始め、終いには呼吸困難に陥って喉をぜ いぜいと鳴らした。それでもテオを睨み続けた。
 テオは何も言わず、何もせず、ただ立っていただけだった。
 不意に強い風が吹き、桜の花弁が一斉に舞った。それらはやがて雪のように降りてきた。
 テオを囲んでいた壁が溶解した。彼は無言で男の背中を強く叩き始めた。
「・・・もう、いい・・・」男はゆっくりと道の端に腰を下ろし、呼吸を整えながらテオの手を押し返した。「止めろ。もういい、テオ、止めてくれ。・・・も う、大丈夫だ」
 テオは男の顔から離した手で、そのまま顔を覆った。「なあ、お前に死なれるのは嫌なんだよ」
「俺はな、テオ」男は降りかかってくる花弁を払いながら言った。「前にも言った、お前の為に生きてるんじゃねえ」
「じゃあ俺の寿命を削るためかよ、え?」テオが肩だけで笑った。「なあ、この際だから言っちまうよ。あのコラージュは・・・タバコの広告用だ」
「なんだ、そんなことか。・・・余計な気を使いやがって」男は鼻を鳴らした。「やれよ。金になるんだろ」
「やるよ。・・・金に困ってるし」テオも落ちてきた花弁を払いのけた。
 男はテオの左腕をつかみ、おそらく痛がるだろうと反応を予想しながら指で強く撫でた。注射針の跡は、増えているに違いない。
「何だよ、痛いじゃねえか」テオが顔を顰めながら身を引いた。
「・・・分かるだろう」男は顔を背けて煙を吐き出した。
 テオはひび割れた唇を舐めてから、囁くように言った。「分かるよ」言った直後に唇に付いた花弁を、彼はそのまま口に含んだ。
 やがて、二人は歩き出した。先ほどの風に舞った花弁は全て地面に落ち、観光客達の足に踏まれ、変色し始めていた。
 部屋に戻ってから、テオが作業を始めた。白い台紙は見る間に女の顔をした肉食獣達で埋まっていった。それは、彼の頭の中を支配し続けているイメージだっ た。「できた・・・。見ろよ、スフィンクスだ」彼は満足げな声で男を招いた。
「印象には残りそうだ」男は見たままの感想を述べると、テオの頭に手を伸ばした。そして、気付かれなかったが為に払われなかった一枚の花弁を指で摘み、完 成したコラージュの上に落とした。


2007.03.03  輝扇碧