あ る 船 出


 男は目を覚ました。耳障りな音が近づいて来たのだ。それはよろめく二人の足音で、片方はピンヒールを履いているのか、床を打ち鳴らす音が耳障りだった。 体を起こすと同時に、彼が住んでいる安アパートのドアが乱暴に開けられた。鍵はかかっていなかったが、かけていなかったのではなく、壊れていてかからな かったのだ。開け放たれたドアから入ってきた夜の空気が少し冷たかった。もう夏ではない。
 部屋に入ってきたのは男の同居人で、テオと言う名のギリシャ人だった。殆ど意識を失いかけており、見知らぬ女に肩を借りているような有様だった。女はブ ロンドの売春婦だったが、部屋に入ってからようやく男の存在に気付いたようだった。お世辞にも美人とはいえないような顔だったが、青い目が澄んでいた。彼 女は顔を強張らせて言った。「部屋を間違えたわ」
「いや、間違ってないぜ。正しい部屋だよ」男は電気を点けた。「そいつは俺の同居人だ」
「ねえ、あんた!一人住まいなんじゃなかったの?」女は床に崩れ落ちているテオを足で小突いたが、反応が見られなかったので男の方に向き直った。「ごめん なさい、汚くて。この男はね、パーティー帰りだか知らないけど、ふらふらの状態でやってきて、あたしを買おうとしたの。断ったら自分に注射を打って、オー バードーズしたわ・・・滅茶苦茶ね」
 男は答えず、テオから汚れた服を剥ぎ取り、引き摺るようにしてベッドに転がした。髪よりも濃く日に焼けた体はすらりとしていたが、男は彼が以前はもっと 筋肉質で、今の体は中毒症状がひどくなって痩せた結果だと言うことを知っていた。テオは汗をかいていた。日焼けしていない瞼が、そこだけ青白かった。
「シャワー貸して。この男のせいで汚れちゃったのよ」女が軽い調子で言った。
 男は黙って頷き、ベッドに凭れ掛かるようにして床に座り込んだ。横目でテオの顔を見ていたが、やがて体ごと向きを変え、正面から見た。最近仕事を始めた せいで、殆ど毎日夜遊びに出かけて行くテオとは擦れ違ってばかりだったので、寝顔を見たのは久し振りだった。相変わらず、男とも女とも取れないような顔 だった。それは眉目秀麗だからではなく、むしろその反対だった。歪な顔立ちだった。
 しばらくすると、女がシャワーを浴び終え、こちらにやって来た。上半身に何も着けておらず、不自然に膨らませた胸が露わになっており、その醜さに男は思 わず顔を背けかけた。
「あいつ、起きた?」彼女は軽い調子で尋ねたが、答えを待っている風ではなかった。そのままベッドまで行くと、テオの上体に跨り、数度その頬を叩いた。 「起きなさいよ、ねえ!」
 テオが目を覚ましたらしく、低く呻く様な声が聞こえた。「うるせえな。俺を叩くなよ」
「久し振りだな、テオ」男はテオを睨みつけた。「厄介事を俺の所まで持ち込むんじゃねえ」
「・・・怒るなって」テオはうっすらと目を明け、微笑んだ。「こいつはヨルゴス。ギリシャ人で、俺の弟だ。だよな、ヨルゴ?」
 女が露骨に顔を顰めた。「あたしはモニカ、女でメキシコ人よ!この野郎」
「テオ、お前嘘をついたな」男はタバコに火を点けようとしたが、胸に違和感を覚えたのでやめた。折角、ここ最近は呼吸困難の発作を起こしていないのだ。 「お前は俺に一人っ子だって言ったぜ?それに・・・モニカ・・・にも嘘をついただろう」
「ついてねえよ、こいつはオカマなんだ!」テオが喚いた。
「ひどいわね、確かめてもいないくせに!」女、モニカが嘲るように笑い、テオを押さえつけるようにして立ち上がった。そして男の方に近づき、胸が触れ合う 距離で立った。「滅茶苦茶ね、あいつ・・・。違う、あいつだけじゃないわ。あんたも・・・あんた、このままじゃ破滅よ。早くあいつを切り捨てなきゃ」
 男は彼女の生え際―天然のブロンドだった―を見ながら、テオに聞かれないように囁いた。「初対面のお前に言っていいかは分からない。でも、これでも考え てるんだぜ・・・前々から。今は時機を伺ってる所だ」言ってから、自分の声に驚いた。掠れた声しか出ていなかった。
「あたしの客に肺がんの男がいたんだけどね、あんたみたいな声だったわ。自業自得ね・・・さあ、あたしはそろそろ行くわ。どうせ買ってくれないんで しょ?」
「ああ」
「さよなら。シャワーありがと」売春婦はそう言うと、洗ったばかりでまだ乾いていない服をまとい、ピンヒールの音を響かせながら出て行った。
 その次の日、男は洗面所の壁に見慣れないシャワーキャップがかかっているのを見つけた。数本の長い金髪が入っていたので、モニカのものだと分かった。よ く見ると、小さな蜘蛛が入り込んで抜け出せなくなっていたが、放っておいた。
 テオが昼前に出かけていったので、男は一人だけになった。仕事は定休日だった。彼は部屋の中を見渡した。綺麗好きだったテオがそうではなくなったせい で、あちこちに埃が積もっていた。彼は壁際の床に置かれている置物の所まで行った。前の住人が置きっ放しにしていった代物で、テオが言うにはオイディプス とスフィンクスの像だった。全裸で槍を持った青年と、女の顔をした豹が向かい合っている。女の顔に涙が描かれているのに気付き、男は思わずぎょっとした。 いつの間にか、テオがペンで落書きしたのだろう。線が震えており、もう滑らかな線を描くことすらできないようだった。男は濡らした布でそれを拭き取った。
 シャワーキャップの中の蜘蛛は、ずっとそこにいた。普段は動かなかったが、シャワーキャップを掴むと慌てふためいた。男はその蜘蛛に名前をつけた。
「モニカ」彼は蜘蛛に向かって呟いた。「俺は分かったぜ、今が去り時だって」
 男は業者に連絡し、スフィンクスの置物を引き取りに来てもらった。それからアパートの契約を今月末までに変更し、テオに気付かれない程度に荷物をまとめ ていった。
 ある朝のこと、ついに蜘蛛が動かなくなった。男はシャワーキャップを揺すってみたが、駄目だった―モニカが死んでしまった。まるで去り時を告げて死んだ かのようニすら思えた。
 彼はしばらく鏡の前で立ち尽くしていたが、やがてシャワーキャップをジーンズのポケットに捻じ込んだ。それから自分の荷物を詰めたスーツケースを玄関ま で運んだ。靴を履き、ドアを開けると、そこにはテオが立っていた。パーティー帰りで、酩酊状態だった。
「・・・これから、仕事・・・か?」テオがふらつきながら言った。
 男はテオを押しのけるようにして、荷物を持って外に出た。「ああ、じゃあな」彼はテオが倒れ込むようにして中に入ったのを見届けてから、ドアを閉めた。 それからスーツケースを抱え、苦労して階段を下りた。
 いつの間にか、夏が終わってから随分と日が経っていた。息を吸う度に、暑さの抜けた秋の風が肺に入り込んできた。物悲しい風だった。


2007.10.13  輝扇碧