浜 辺 の 孤 独


 ぎらつく太陽が容赦なく皮膚を焦がしていく。サンダルの中に入り込んだ砂だけでなく、空気までも乾ききっていて、熱い。
 サングラス越しに太陽を見上げていた男は、彼が十数分前までいたパラソルの下に戻り、そこだけ幾分か冷えている砂の上に座った。それからTシャツの袖で 汗を拭い、波打ち際に目をやった。そこに同居人がいるのだ。
 男の同居人はテオという名のギリシャ人で、よく日焼けしている均整の取れた体と、その肌と似たような色をした髪の持ち主だった。腰に麻布を巻きつけてい るだけのほぼ裸に近い格好で、熱い砂の上に足を交差させて立っていた。彼は男の方を向いていたが、その目は閉じられ、眉が微かに寄っていた。サングラスを かけていないせいで、目を閉じていても瞼を透かして入ってくる太陽光が眩しいのだろう。金色に塗られた瞼が、男とも女ともつかない歪な顔の中で目立ってお り、まるで見開かれた獣の目のようにも見える。オリーヴ油を塗られた体から汗が滴り落ちていた。
 男は一本のタバコを箱から取り出して火を点けようとしたが、先程テオに咎められていたのを思い出し、再び箱に戻した。タバコなしでは生きていけないとい うのに、潔癖症の気がある同居人のテオはいつもそれを嫌い、室内で吸うことを許さなかった。そして彼は今日も仕事に集中できないという理由で、男がタバコ を吸うことを禁じたのだ。
「テオ」男は呼びかけた。「テオ、テオ・・・聞こえてるだろう?」
 それでもテオはほぼ微動だにしなかった。唯一動いたのは胸だったが、それは男の呼びかけに対する反応ではなく、ただの呼吸に過ぎなかった。
 男はわざと咳をした。彼が咳をする度に、テオは露骨に嫌な顔をし、不快感を露にしていたからだ。それでも反応がないのを見ると、男はパラソルの下から出 て同居人の方へ向かおうとした。すぐに脇に汗染みのある白いシャツを羽織った、体格のいいギリシャ人の男がやってきて、彼を腕で制した。テオの方を指差し て何か言ったが、男にはまったく理解できなかった。
「あいつに・・・テオに、早く済ませてもらうように言ってくれ」男は言ったが、理解されていないのは明らかだった。「俺はもう、ここで独り待ってるのはう んざりだぜ、って」
 ギリシャ人は首を横に振り、砂を指し、次いで男の足を指した。苛立たしい位の時間をかけて、その動作を何度も繰り返した―男は相手の言いたいことを曖昧 にではあるが悟った。テオの周囲の砂に足跡をつけるなということらしい。
 男は再びパラソルの下で腰を下ろし、手の甲で顔の汗を拭った。それから同居人の方を見やった。いつの間にか、体ごと横を向いている。先程姿を消したカメ ラマンが戻ってきていた。熱い砂の上に腹這いになってカメラを構え、何やら大声でテオに指示していた。男には、その内容も全く分からなかった。彼の言葉を 理解できるのは、ここにいる人間の中でテオだけだった。今や、そのテオも男の理解できない言語を話している。
 足を大きく開くようにして膝立ちになったテオが、両手で体の前にある砂を掬い取り、高々と掲げた。指はきつく閉じ合わされていたが、器の形を作った両手 の縁から砂が零れ落ちていた。
 カメラマンが、シャッターを切り始めた。
 男は、僅かに見えるテオの腿の内側を凝視していた。彼の皮膚はぎらついていたが、それでも青黒い注射針の痕は隠しきれていなかった。彼はそれに対して今 まで見てみぬ振りをし続けてきていたが、それも限界に近づきつつあった。
「テオ、俺はもうこれ以上は無理かも知れねえぜ」男は小さな声に出して言った。今の彼が理解することのできる言語は、自身の口から発せられた言葉だけだっ た。「お前ががりがりに痩せたら、荷物をまとめて、俺は部屋を出て行く」それから彼は両手で顔の汗を拭い、同居人を見た。
 テオが徐々に指を開き始めた。砂は彼の頭や肩、大きく開かれた足にも降りかかり、油と汗で濡れた肌に付着していった。
 男はテオの横顔を見て、小さな驚きを覚えた―笑みを浮かべていたのだ。太陽光の眩しさのせいで僅かに顔を顰めてはいたが、その顔に浮かんでいるのは冷笑 ではなかった。自嘲の笑みでもなかった。何の形容詞も付かない、ただの笑みとしか言いようがなかったが、それは男が一度たりとてテオの顔に浮かんでいるの を見たことがないものだった。
 “スフィンクス”―ふと男の頭の中に浮かんだ単語があった。いつだったか、テオの持っている辞書でいくつかの意味を知った。古びたその辞書は、彼が父親 と母親を嫌悪する一方で尊敬し続けていた、言語学者の祖父の形見なのだそうだ。テオは自らが囚われ続けているその単語があるSの項に赤い付箋を貼ってい た。その単語のいくつかの意味の中の一つを思い出した―“謎の人”・・・。
 男はテオを見た。今この瞬間、銅色に光り、浮かべたことのない笑みを浮かべている彼は、男にとってまさに見知らぬ男であり、スフィンクスだった。
 不意に先程の白いシャツを着たギリシャ人がやってきて、男の肩を叩いた。気さくな笑みを浮かべ、立ち上がったばかりの男の体を強く前に押した―カメラマ ンが、そしてテオが、仕事を終えていた。
「終わったぜ」テオが汗を拭いながら、男の方を見た。「・・・ギリシャはどうだ?」軽い口調だった。
「早く帰りたいぜ。何も理解できねえ」男は小さく安堵の息を吐き、砂塗れのテオの手に目を落とした。そして、その指が細くなり始めているのに初めて気が付 いた。それは気のせいなどではなかった。


2007.06.16  輝扇碧