ス フ ィ ン ク ス


 安アパートの階段を一気に駆け上がると、男は大きく息を吸った。喉の奥で音がした―咳き込む前兆だ。次の瞬間、彼は咳き込み、呼吸困難になるまで喉をぜ いぜいと鳴らした。
「・・・テオ」やがて咳が止まると―今回のはさほど酷くなかった―、彼は呟いた。「ただいま」
 立っている男の真正面にある部屋のドアが開いた。「お帰り」姿を見せたのは、彼がテオと呼んだ男だった。
「吐かないんだったら、部屋を汚さないんだったら入れ」テオはそう言ってドアから手を離した。彼はギリシャ人、均整の取れた体はよく日に焼けていて美し かったが、男とも女とも取れない、どこか歪な顔立ちをしていた。日に焼けた肌と似たような色の頭髪が白目をくっきりと際立たせている。
 男は階段の手摺越しに、下に向かって唾を吐き捨てると、閉まりかけたドアの隙間から室内に入った。「テオ・“アンドロギュノス”」彼は言った。「そろそ ろこの悪趣味な置物をどけようぜ」
 彼の言っている置物は、前の住人が置き去りにしていった代物だった。初めは苔がついていたが、テオがきれいにした。一糸纏わぬ姿で槍を手に持った青年 が、女の顔をした豹と見つめ合っている。青年は獅子の鬣のような髪をしているのにも拘らず、首から下には毛がない。おまけに女の顔をした豹ときたら、顔だ け女で首はもう豹のそれなのだ。テオが言うにはスフィンクスなのだそうだが、男には未だそのようには見えず、それらから美しさを感じることはできなかっ た。
「うるせえ、俺は好きなんだよ」テオは置物の前に茣蓙を敷いて陣取っていた。「それに、いつになったらその呼び方を止めてくれるんだ?」
「こいつをどけるまでだ」
「うるせえ、お前が何と言おうがな、どけるもんか」
「俺はいつまで我慢したらいいんだ?」男は言葉の後に軽く咳き込んだ。
 途端にテオが不快げに眉を顰めた。「タバコはうんざりなんだよ」彼はそう言って、茣蓙の上で体を捻った。「俺の体の中に毒が溜まってくし、部屋だって汚 くなってく」
「ああ、そうだな。テオ、お前は俺と違ってきれい好きだ。でもな、きれいだからって、何かいいことでもあんのか?」
 テオが顔を引きつらせた。男は一瞬後悔したが、既に遅かった。
「そうだよ、お前は生まれがいいからそんなことが言えるんだ。お前の親父は会社勤め、お袋は働いてすらいないんだ。だからきれいごとを言える。でもな、俺 ときたら存在そのものが汚いんだ!信じられるか?俺の両親が何をやってたか・・・。ああ、そうとも!お袋は娼婦、娼婦だよ。親父は男娼。だから俺 は・・・」
 男は抑えた声で言った。「止めろ」
「おまけに親父とお袋はな、血の繋がった兄妹だったんだ。お袋が自分の兄貴との間にガキなんか作るから・・・!」
「何度も聞いたことだ。テオ、止めろ。止めろ」
「お前はいつだって、見当外れのことしか言いやしない!どうせ貧民街で暮らしたことなんざないんだろ、え?」
「もういい。止めろ。止めてくれ、俺が悪かった」男はそう言った直後、喉の奥で音がするのを聞いた―咳き込む前兆だ。それでも彼は続けた。「俺が・・・」 次の瞬間、激しく咳き込んで呼吸困難に陥った。それでも、目の前にいるテオを睨んだ。
 テオはほとんど衝動的と言ってもいいほどの勢いで男の背中を強く叩いた。しばらくの間その打撃音と、男の唸り声だけが室内の音の全てだった。
 やがて男の呼吸困難が治まった。彼は埃一つない床にうつ伏せになって目を半分閉じかけたが、テオが何か言いたげな素振りをしているのを目の端で捕らえた ので、再び目を開けた。「止めろ」
「まだ何も言ってないぜ」テオが囁くように言った。
「小言はごめんだ」男は仰向けになった。「俺はな、テオ。お前のために生きてるんじゃねえ」
「じゃあ、俺の寿命を削るためかよ、え?」
 男は返事の代わりに寝返りを打った。「生まれたときに足が四本・・・」
 テオが言葉の続きを奪った。「それから二本、最後に三本。違うか?でも俺はな、生まれたときから二本足で歩いてた」
「馬鹿言え」
「なあ、本当のスフィンクスを知ってるか?」彼は男の方に辞書を押しやった。
「当たり前だろ」男は辞書を手に取った。あちこちに付箋がついている小さくて古びたそれは、テオがいつもお守り代わりに持ち歩いているのだが、言語学者 だった彼の祖父の形見だった。彼は彼の両親を嫌悪したが、この祖父のことをいつも尊敬していたそうだ。
 テオは男がページを繰るのを見ていたが、やがて天井の方を向いて呟いた。「『S』の項だ。赤いのを貼ってる」
「見つけた」
「読んでみろよ。声に出さなくていいけど」
 男は一字一句を目で追った。それから置物を見た。「・・・紛れもないスフィンクスだな」
「だろ?これでもう、どけるとか言わねえよな」
「ああ。だから俺もタバコを吸い続けるよ」
「俺の寿命を削るためにか、え?」
「さあな」彼は黙り込んだ―呼吸困難の後に訪れる言いようのない虚脱感から、未だ抜けきっていなかったのだ。視線を上げると、首を傾けるようにして茣蓙の 上に座っているテオの姿が目に入った。こちらの答えを待っている様子ではない。この言い争いに終わりがないことを知っているのだ。
「テオ・“アンドロギュノス”」彼は囁いた。「いい加減、その意味を教えてくれよ」
「俺がもう少し上手く説明できるようになったらな」テオが茣蓙の上で体を捻りながら言った。彼の女とも男とも取れない歪な顔の皮膚は乾燥し、雀斑が浮いて いる。二の腕にある、青黒い注射針の跡は増える一方だが、男は未だそれに気付かぬ振りをし続けている。


2006.12.15  輝扇碧