男は常に左手を隠そうとする癖があった。夏場はスラックスのポケットに突っ込んだままにしていたし、冬場は手袋をした。手の平に火傷の痕が残っていたか らだ。それは彼の顔、左頬の端にも細い筋のような形で残っていた。幅二、三ミリ、高さは数センチほどある。見る人間によっては、切り傷のように見えるかも しれない。

十数年程前、男盛りだった頃に男はその火傷を負った。当時可愛がっていた青年が、盗んだバイクを売りさばこうとして捕まったのだ。彼は男と同業のギャング で、孤児上がりの卑しさのようなものを全身に纏っている青年だった。きっと前々から警官達に目をつけられていたに違いなかった。証拠に男が保釈金を持って 拘置所に行ったとき、そこにいた警官は笑ってこう言った。「金をどぶに捨てるのはお止めなさいよ。どうせあのガキは何度でも盗みをやるに決まってるんだか ら」
 だが、男は保釈金を払い、青年を連れて帰った。それからも同じことが繰り返された。
 青年はその年に成人したばかりだった。背が低く、少年としてでも通りそうだった。男と同じ赤毛だったせいか、よく親子に間違われた。その度に彼は憮然と した顔で否定した。男は黙っていた。
 やがて、ついに青年は人を殺して捕まった。
 男はいつものように保釈金を払いに拘置所に行ったが、警官は青年を刑務所に入れたと言った。その病人のように悪い顔色と残忍な表情を、今でも覚えてい る。
「前科がどれ程あるのかも分からない。更正の余地があると思うのか?」警官はそう言い放った。「それに、こちとらお前をいつでも逮捕することさえできるん だからな」
 何度か押し問答を繰り返したあげく、男は立ち上がろうとした警官を左手で制し、拳銃を取り出した。「なら、力づくで取り返すまでだ」
 次の瞬間、警官が椅子の下から取り出したガスバーナーが火を吹いた。男の左手はたちまち炎に包まれた。彼は叫び声を押し殺しながら、走って逃げた。誰も 追ってこなかった。
 男は公衆便所の手洗い場で左手を冷やした。何気なく鏡を覗いたとき、左頬も火傷していることに気付いた。電話で知り合いの医者を呼んだが来られないと言 われたので、左手を上着で隠しながら彼の所まで行った。
左手の火傷は、完全に乾くまでに一月以上かかった。それまでに左頬の火傷は治り、白い筋になった。

 今の男は、火傷を負ったときよりも一回り歳をとり、体の傷も増えた。右足に負った傷の後遺症のせいで全力疾走することもできない。
 青年とは未だに再会していなかった。なにより彼自身が、再会することはないだろうと思っている。
警官達のブラック・リストに載っているであろうあの青年が脱獄することは不可能なはずだ。
 男もまた、警察からの逃亡を続ける身だった。それが長くなるにつれて、殺した警官の数も増えた。
 そして今、通りの向こうから歩み寄ってくるのも警官だった。
 俺はこのお巡りから上手く逃げられるだろうか。男は考えた。逃げ込めそうな裏道はないが、辺りに人の姿もない。
 警官はしきりに男の方を見ていた。まだ若く、少年と言ってもいい程だった。だが、男の記憶の中の、あの青年とは重なりそうもなかった―まるで育ちのいい お坊ちゃんだ。
 無意識のうちに、男は手袋の中で左手を動かした。次いで右手で上着の中を探り、拳銃を確かめた。
「あの、失礼ですが・・・」近付いてきた警官が言った。ミスター・・・・・・」
 なぜ俺の名を?男はとっさにそう言いかけたが、無言ですれ違おうと試みた。
「ミスター・・・・・・?署までご同行・・・」
「嫌だと言ったらどうするんだ、え?」男はこの自分と親子程も歳が離れた若い警官を見遣り、不敵に笑ってみせたものの、たちまち真顔になった―銃を突き付 けられたのだ。「中々大胆だなあ、お巡りさん」
 次の瞬間、彼は上着の内ポケットから取り出した拳銃で警官の胸に向けて撃ったが、手元がぶれて弾が下腹部に当たった。血が飛び散った。
 若い警官は目を見開いてよろめいたが、果敢にも発砲した。
 銃弾が肩を貫く衝撃にふらつきながら、男は後ずさった。そして血が吹き出す前に走りだした。
 後ろで警官が地面に崩れ落ちる音がした。
 男は走りながら、ふと思った。警官にやられたこの火傷が命取りになったな。現に俺の顔は奴らに知られてるじゃないか。
 やがて、血を吸った上着が重くなり始めた。


..2007.01.09. 輝扇碧
火傷