El criado y la mujer



T.


 あるかなきかの生温い風が、開け放した窓から室内に吹き込み、日に焼けて変色したブラインドをかたかた言わせていたが、アルバロは寝返りすら打たなかっ た。アルバロにとってのこの音は、遠くから聞こえてくる、引いては寄せる波の音、つまり、聞こえてはいるものの、気にはならない類のものの一つだった。
 電話のベルが鳴り始めた。
 アルバロはまだ起きる気配すらなかったが、寝返りを打ったので、それで体が窓の方を向いた。たちまち昼の強い光が、所々折れ曲がったブラインドの隙間か ら差し込み、目蓋を突き刺した。
 アルバロは低い呻き声を上げ、再び寝返りを打ち、ぼんやりと目を開けた。アルバロは肩の長さの、白髪交じりの縮れた黒髪に、ダークアイの、中年に差し掛 かり始めたような年頃の男で、この安っぽい貸し部屋に一人住まいだった。
 電話のベルが止み、あらかじめ吹き込んでおいた、自分の事務的な音声が流れた。『ごめんなさい、今は電話に出られない・・・。もう少ししたら音が鳴るか ら、その後に続けてあなたのメッセージを・・・』
『もしもし、こんにちは・・・』
 ベッドから半分身体を乗り出した状態で、床に転がっているミネラルウォーターのボトルを取ろうと、苦戦しているアルバロの耳に入ってきたのは、電話越し に聞くのは初めてだったが、よく見知った女の声だった。
『アル・・・アルバロ?いないの?私、マヌエラだけど・・・』
 可愛い声じゃないか。アルバロは、ベッドに仰向けに寝転がり、目を閉じて、頬を緩めた。いい加減にこの電話を買い換えるべきだ。レーラの声が別の女みた いに聞こえる。
 レーラ、ことマヌエラは、アルバロの、今となっては数少ない知人の中の一人で、今の仕事のクライアントだ。
 アルバロの仕事は彼女自身のボディーガードをすること。ダンサー時代に鍛え上げられた肉体と、高い運動能力を買われてのことだった。今の所、仕事は順調 で、給料も滞りなく払われ、お陰でどうにか生計を立てていた。
 マヌエラの声は続いた。『眠っているみたいだから、お知らせだけしておくわ。今朝、キューバから帰ってきたお友達から、紅茶と・・・そう、チョコレート を、お土産に頂いたの。だから、お裾分けを持っていこうと思って・・・。シエスタ(*1)の前に、いつものカフェテラスで会いましょう?』やや早口に言い 切ったところで、ちょうど録音時間が終わった。
「シエスタの前」アルバロは呟いた。セニョリータ(*2)、それは、きみを基準にしての時間か?
 眠っている間にかいた汗のせいで、アルバロは酷い喉の渇きを覚えていた。ボトルを傾けて流し込んだミネラルウォーターは、部屋の中の空気や、外から吹き 込む、とても風とは言えないような生温い空気に温められて、それらと同様に生温く、刺激のないものだった。この分だと、たとえシャワーの栓をひねったとこ ろで、氷のように冷たい水が出てくるだろうか?いや、ありえない。
 アルバロはミネラルウォーターのボトルを屑篭に投げ入れ、じっとりと湿ったシーツを、身体から引き剥がすようにして起き上がった。ボトルが屑篭に入った かどうかを確認し、次に窓を見て、ブラインドを上げるべきか否かを思案したが、結局そのままにしておくことに決めた。日光が差し込めば、部屋の温度はきっ と、ますます上がってしまうだろう。同様の理由から、換気扇もつけっ放しにしておくことにした。
 シャワーの栓をひねって出てきた水は、アルバロの予想を裏切って、すぐに冷たくなり、容赦なく体に降り注ぎ、その心地よさが、体を震わせた。
 水が目に入らないように俯き、体を見下ろすと、アルバロには自分の体に、また傷と痣が増えたように思えた。三日前の痣は、既に黄色くなり始めているが、 そのすぐ横の傷は、まだ瘡蓋になってすらいない。
「ミエルダ(*3)」アルバロは呟き、口に流れ込んだ水を吐き捨てた。
 体から消えることのない痣や傷だが、それを消し去るのは、実に簡単だ。やめればいい、それだけのことだ。だが、簡単そうに見えるものが、実はただ単純な だけで、実行するのには、とてつもない労力が必要なことだってある。今この仕事をやめれば、この生活ですら、維持していくのは困難になるだろう。
 アルバロは体を拭いた時、腹回りがたるみ始めていることに気が付いた。フラメンコ・ダンサーをやめてからから二年、もう中年に差しかかろうとしている。 無理もないはずだ。
 しかし、アルバロは受け入れるのに時間を要した。フラメンコを踊っていた頃は、今の倍以上の量を食べていたにもかかわらず、いつも体は引き締まってい た。ところがどうだ、今はその半分も食べていないくせに、体がだぶついている。
 自分の衰えを実感した。昔から自分の顔には、人並み以上の自身を持ち合わせていたが、踊るのをやめて、舞台から降りた途端、寄ってくる女もいなくなっ た。華やかな新人の方に興味が移ったのだろう。何よりダンサーが一番美しいのは、仕事をしている時、踊っている時だ。
「ミエルダ」アルバロは毒づき、濡れたままの髪を縛った。中途半端に伸びた髪は、そのままにしておくと鬱陶しい。何より、小汚い格好をしていると、マヌエ ラが眉をひそめる。髪は束ねるか、撫で付けるか、もしくは短く切るか―初めて出会った時、マヌエラは三つの選択肢を示し、その結果、アルバロは一番楽な方 法を選ぶことにした。
 アルバロは素肌に黒いシャツを羽織り、グレーのスラックスに足を通すと、外に目をやった。人の往来が少ない、そろそろ行くべき時間だろう。