El criado y la mujer



U.

 アルバロがカフェテラスに行った時、すで に辺りに人気はなく、屋外のテーブルを拭いている、若い従業員が一人いるだけだった。
「ドン(*4)・カブレ」若い従業員は、仕事の手を休めると、片方の眉だけを持ち上げて見せた。「奥に、いらっしゃいます」
「セニョール(*5)」アルバロも眉を寄せ、笑って応じた。「やあ、悪いね」
 店内の照明は落とされていて、そのせいで部屋は薄暗く、もし今が午前中か、夕方であれば、見ることができたであろう、でっぷりと太った店主の姿もなかっ た。そんな静かな店内の、奥の席に、鮮やかな模様のワンピースを着た、サングラス姿の、黒い髪をした女が、たった一人で座っている。
 アルバロは一歩、また一歩、と女に近づいていった。
 二人の距離が、ほんの二、三歩になった時、女がついに、唇からストローを離して笑った。マヌエラだった。
 アルバロは首を横に振り、おどけた様子で、笑みを浮かべた。「セニョリータ、何を飲んでるの」
「ソーダ水よ。ついでに言うと、もう二杯目なのだけど」外を見たまま、マヌエラが言った。
「レーラ」アルバロは笑顔で両手を広げた。「機嫌を直して・・・ごめんよ、遅くなった」
 マヌエラが、サングラスを外して立ち上がり、二人は軽く抱き合った。「あまり、待たせないで」マヌエラは言った。「気が、変わるかも知れないでしょう」
 アルバロは、マヌエラから視線を外すことなく、向かいの席に腰を下ろした。「さて、何かな」
「何か飲み物は?」マヌエラが言った。「それとも何か、お腹に入れたほうがいいのかしら」
「ソーダ水。・・・食い物は、期待できそうにないね。この時間だ、レーラ」
「ソーダ水ね」マヌエラは、台拭きを片手に戻ってきた、若い従業員に言った。「ソーダ水を、ドン・カブレに」
 ドン・カブレ。従業員の姿が見えなくなった後、アルバロは声を押し殺して笑った。このおれが、ドン・カブレね。「ここでのおれは、ドン・カブレって名前 があるんだね」
「ええ、そうよ。・・・よろしく、ドン・カブレ」
そういったマヌエラも、アルバロにつられて笑い出したが、数秒で元の表情に戻ると、小さな紙袋を取り出し、机の上に置いた。「フラメンコ・ダンサーの、 フィリッポ・カルデロンを知っているかしら」
「カルデロン!」アルバロは呻いた。引退したアルバロの後釜、それがフィリッポ・カルデロンだった。後釜と言えるかどうかは分からない、むしろ、アルバロ を引き摺り下ろして、その場所に居座ったと言った方が、本当のことかもしれない。カルデロンさえいなければ、アルバロのダンサー時代は、もう少しだけ長く 続いただろう。
「はは、成る程。奴の土産だね。つまり…フラメンコの公演をやりに、キューバまで?」
「公演だけじゃなくってよ」マヌエラが紙袋を押しやった。「開けてみて」
 言われた通りに、アルバロは、紙袋の中から、一缶の紅茶と、チョコレートの箱を取り出した。
「おお、随分とまあ、たくさん・・・」紅茶とチョコレートかと思ったものは、一目で両方とも大麻だということが分かった。乾燥させた大麻の葉、それに樹 脂。著 名なダンサー、フィリッポ・カルデロンのことだ、金に物を言わせて持ち込んだに違いない。
「ミエルダ!」アルバロは呟き、首の後ろに手をやった。「セニョリータ、おれは、これを・・・どうしたらいいのかな」
「それを持って、私の取引先に行ってくれたらいいわ」
「運び屋をしろと言うの?おれはこれでも、元フラメンコ・ダンサーで、大きな舞台で踊ったりもしていたんだよ。顔を知られているかもしれない」
 マヌエラはうっすらと微笑んだ。「踊っていないダンサーなんて、さほど目立たないわ」
「確かにね。おれは、カルデロンに比べたら、背だって低い」
 レーラは、言葉の影響力を知っての上で、こんな物言いをしているのだろうか?アルバロが時々抱く疑問だ。このセニョリータときたら、若さゆえか、まるで おれが、狭い部屋の中で、ボトルを屑篭に放り込む時のように、無造作に事実を言ってくる。
「簡単でしょう。アル、私のボディーガードをしているくらいだもの、どうってことないわ」
「分かっている…分かっているよ」アルバロは軽く両手を挙げ、先を続けようとしたマヌエラを制した。「どのみち、おれは、断る為に出すカードなんて、一枚 も持っていない」
「そうね、その通りだわ」マヌエラは笑って言うと、ハンドバッグから、数字が書かれた、小さな白いカードを取り出して、机の上に置いた。
「レーラ、これは何かな」
「私の銀行の、口座番号よ。お金は、そこに入れたらいいの」
「どれくらいの額か、きみは、分かっているんだよね?」アルバロは、カードを指で弄びながら、ソーダ水を飲んだ。若干気は抜けてしまっているものの、まだ 十分に冷たかった。
「中に入っているメモを読めば、相手の方も、きっと分かるはずよ」マヌエラが言った。マヌエラは、アルバロの指に弄ばれているカードを取り、裏返しにする と、そこに書かれている文字を見せた。「時間と場所は、ここに書いてある通りよ。変更は、まずないわ」言うなりマヌエラは立ち上がり、足早に外に出ていっ た。
 外から会話が聞こえ、どうやら、支払いを済ませたようだった。若い従業員が礼を言うのが、アルバロの耳にも聞こえた。
「これは、二人分よ。私と、ドン・カブレの分」マヌエラがこう言うのが聞こえた。「それと、ドン・カブレに、ソーダ水のおかわりを」