El criado y la mujer



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 風が強くなってきたらしく、カーテンがは ためいている。辺りは明るく、光を遮るブラインドもない。
 アルバロが目を覚ますと、そこは病院の一室だった。口の周りに圧迫感があったので、手をやると、酸素マスクがつけられていた。不快だったので外したが、 すぐに息が苦しくなった。
 再び、酸素マスクが当てられた。「セニョール、気が付いた?」
 聞き覚えのある声に、アルバロは体を捩って視線を向けた。
 ラモン・アルベルダだった。そばかすの浮いたオリーヴ色の肌に、猛禽を思わせる鷲鼻、甘さを帯びた目元、そして強靭な肉体。この男に、自分は打ち負かさ れたのだ。そう思うと、怒りは涌いてこなかった。
「お巡りさん」アルバロは、酸素マスクの中で言った。「”マリコン”なんて呼んだおれは、ひどい奴だっただろう」
「ケチェ」ラモンが、窓際の椅子に腰掛けている、老警官を呼んだ。「何か言ってるよ」
 しばらくすると、今度は酸素マスクのせいで、息が苦しくなった。傍にいたのは老警官で、視線を合わせた途端、酸素マスクを外してくれた。息が楽になり、 アルバロは頬を弛ませた。「グラシアス、ドン・ケチェ」
「礼なら、わしの足を折ったことを、詫びてからにするんじゃな」セスクは、長い眉毛の奥からアルバロを睨むと、松葉杖をついて、窓際に戻っていった。「ラ モン」
「目が覚めたなら、セニョール、それじゃあ」ラモンが近寄ってきた。「行きましょう。あんた、もう三日間もここのベッドを占領してる」
 アルバロは体を起こした。倦怠感はあったが、それだけだった。ほんの一瞬、マヌエラの顔が脳裏をよぎった―レーラ、一体君はどうしてる?
「さて、シニョール」セスクが言った。「三日の遅れを、今ここで取り戻せたら良いんだがなあ」
「どうやって?」アルバロは尋ねたが、一方で、おおよその見当はついていた。
 ラモンを見ると、マヌエラのカードを取り出したところだった。
「あんたも、マヌエラに振られたのかい?驚きだ、よくここまで我慢したもんだよ」青い目を瞬かせて、ラモンが言った。
「そうだよ、トロ・マッチョ」アルバロは答えた。「今思えば、全くもって、きみの言うとおりだ」
「マヌエラは運命の女だった」ラモンが目を細めた。「あいつと会わなかったら、今頃、警官なんかやってないさ」
「そうだね」アルバロは、上着を着ようとしたが、セスクに止められた。
「羽織るだけにしとけ。手錠が見えりゃあ、無様だろうが」
「レーラの使い走りをしているうちに、おれは・・・」アルバロが涙で声を詰まらせたのは、フラメンコの舞台から永遠に降りると決めたとき以来だった。
「哀れなこった」セスクが言った。「でもなあ、わしらは仕事中で、そいつを早く済ませたいんじゃ」
 同調するように、ラモンが言った。「行こうよ、セニョール。泣くだけ時間の無駄さ」

 主のいない部屋で、マヌエラは、その帰りを待ち続けていた。アルバロの部屋に泊まりこんでから、二日が経っていた。マヌエラ自身、その事実に対して、若 干苛立ち始めていた。いったいどうして、雇い主の私が待たされるのかしら?
 服を着たまま寝たので、ブラウスには皺が寄っていた。自分がこんな状況に置かれているのは、全てアルバロのせいだと、マヌエラは信じて疑わなかった。ア ルバロが戻ってきたら、真っ先に、解雇することを伝えてやらなくてはならない。
 ドアが開き、チェーン・ロックに引っかかる音がした。
「セニョリータ、そこにいるの」
 聞きなれた、バリトンの声が聞こえた。アルバロに間違いなかった。
 マヌエラは、ドアに駆け寄った。チェーン・ロックの隙間から、アルバロの顔が見えた。
「こんにちは、アル」マヌエラはよそよそしい振りをしたが、声に含まれる安堵を隠し切れなかった。「随分と、時間がかかったのね。おまけに・・・アル?」
「マヌエラ、一緒に行こう」アルバロの声はいつもどおりだったが、その表情は虚ろだった。マヌエラ、と呼ばれたのも、初めてだった。最初は気のせいかと 思ったが、瞳孔は開き、額には脂汗が浮いている。
「アルバロ?ねえ、アル、どうかしたの?」不審に思ったマヌエラは、チェーン・ロックを外すと、完全にドアを開け放った。目の前の光景は、信じられないも のだった。アルバロが立っているのは変わらなかったが、その両手は後ろに回されていた。両脇には二人の警官がいて、おまけに、若い方は、かつてマヌエラに 言い寄ってきた男、ラモン・アルベルダだった。
 マヌエラは口元を押さえたが、驚きを隠すことは、もはや不可能だった。
 アルバロの瞳に、ほんの一瞬、強い光が灯ったが、それはすぐに消えた。薄い唇が開き、どこか物憂げな表情になった。
「ああ、アル・・・」マヌエラは、全てを理解したが、既に遅かった。
 アルバロが言った。「きみの使い走りが、お迎えに来たんだよ・・・」

The End.