El criado y la mujer



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 トイレを出てすぐに、アルバロは、汚れた 地面に白いカードが落ちているのを見つけた。マヌエラのものだということは、疑いようもなかった。それが、こんな汚い地面に、無造作に投げ置かれている。
 レーラ、どうしてしまったんだい?アルバロは身を屈めてカードを拾った。奇麗なカードを、こんなに汚い地面に置くなんて。
 カードには、マヌエラの筆跡で『Una prostituta portuguesa(ポルトガル人売春婦)』とだけ書かれていた。確かに、それならば―相手が女ならば、自分が国境を越えるしかない。相手と比べれば、 随分と容易な仕事だ。
 問題は、アルバロの腹に、ビニール袋詰めの麻薬が入っていることだった。もしこれが途中で破裂したならば、大惨事を免れるのは、不可能だと言っても良 い。
 アルバロは、タクシーを捕まえて、国境付近まで行った。マヌエラの言った通り、運転手はアルバロがかつての花形フラメンコ・ダンサーだとは、気が付く素 振りもなかった。タクシーを降りると、のどの渇きを覚えたので、売店でボトルに入ったミネラルウォーターを買い、一口飲んだ。途端に胃痛が襲ってきて、思 わず呻き声を上げたが、しばらくすると治まった。こういうときは、自分の体力が、まだそうひどくは衰えていないことを実感できる。
 検問所のフェンス越しに、相手を見つけようとしたアルバロは、予想外の人物を見つけ、体を強張らせた。

「ケチェ、ケチェ、あいつだよ。あいつだ!」
 ラモン・アルベルダは、押し殺した声で言ったつもりだったが、横でそれを聞いているセスク・ケチェにとっては、いつもと大して変わらない大きさで聞こえ た。
「うるせえ、このトロが!」
「ねえ、そうだろ?アルバロ・”ガラン”だ」
「ラモン、お前さん、声をもう少し小さくできんかなあ」セスクは、ミネラルウォーターを一口飲んで、残りを地面に捨てた、かつてのフラメンコ・ダンサーか ら目を離さずに言った。「まあ、お前さんの言ってるその通りだがよ」
「あそこの女が取引相手かな」ラモンは悩ましげな溜息をついた。「ああ、いい女」
 女はラモンの視線に気付いたらしく、上体をひねってウインクした。胸が辛うじて隠れるほどの長さしかないタンクトップに、股のすぐ下で切ったローライ ズ・ジーンズを穿いていて、スレンダーな肉体を、惜し気もなく晒している。黒いストレートヘアーの、モデルのようなその美女を見れば、何も持っていないこ とは明らかだった。
「素晴らしい」ラモンが呻いた。
「あの胸は、本物じゃねえだろうなあ」セスクはからからと笑った後、手錠をちらつかせた。
 ラモンが眉をひそめた。「何?どうしたのさ」
「女を見てるだけじゃいかんぞ、ラモン。奴を見なきゃなあ」

 アルバロの肌を、冷や汗が伝い落ちた。老警官、セスク・ケチェがこっちを向いて、手錠をちらつかせたのだ。
 何気ない調子で視線を外し、目的の売春婦を見つけた。整形手術の賜物かもしれないとは言え、悩ましい肉体の持ち主だったが、アルバロにとって、今は興奮 している場合ではなかった。これがマヌエラから頼まれた仕事だということすらも忘れていた。ただ、逮捕されるかもしれない、という恐れだけがあった。
 取引ができないということを、警官達に気付かれないように、あの売春婦に伝えなければならない。ポケットを探ったが、マヌエラのカードしかなかった。こ れでは分厚すぎる。
 アルバロは売店まで引き返した。辺りを見回すと、二人の幼い少女が、錆付いたテーブルに、マーカーで落書きをして遊んでいる。
「ねえ、セニョリータ」アルバロは、片方の少女に声をかけた。「そいつをちょっとだけ、ちょっとだけでいいから、おじさんに貸してくれ」
 次にアルバロは、落ちている紙ナプキンを拾い、『Las relaciones detienen(取引中止)』とだけ書くと、そのナプキンで小石を包んだ。
 再び検問所まで行くと、若い警官、ラモン・アルベルダと目が合った―気付かれてしまった。もはや時間は残されていない。
「気付いてくれ、セニョリータ」アルバロは、フェンスの向こうの女に向かって石を投げると、セスク・ケチェが振り向く前に、その場から逃げ出した。