01.黒スーツ


 その男は元来、多少の物音では目を覚まさない人間だった。彼がその日の 夜に目を覚ましたのは、左足の疼きからきたと思われる悪夢のせいだった。左足の踝から太腿にかけて、大きなタトゥーを二週間前に入れたばかりだった。ここ 数日治まっていた疼きがまたぶり返した。それに呼応するかのように、体のあちこちに開けたピアスの穴までもが疼きだし、おまけに夢の中で、マリファナを 吸っていたころの感覚がフラッシュバックしたのだ。
 彼は再び眠ろうとしたが、壊れたブラインドの隙間から漏れる外の光が気になった。ブラインドをあちこち引っ張って、どうにか光の侵入を防ごうとしたもの の結局叶わず、かえって眠れなくなった。いつものことなのに、外の騒がしいのが気になりだした。
「泥棒を捕まえて!」女の叫び声がしたが、男はそれを聞き流した。スラムには泥棒がうようよしている。彼もその中の一人だった―二階建ての家に住んではい たが。それも家賃を払っているのは別の人間だった。
 罵り文句の後に、殴られた人間の呻き声らしき音が聞こえた。ごろつき度もが喧嘩でもしているのだろう。
 悲鳴が聞こえ、すぐ下でガラスの割れる音がした。先程の女の声が、「泥棒を捕まえて、泥棒よ!」と繰り返した。男は半裸のまま―ジーンズ以外何も身に付 けていなかったが、たいてい家にいるときはこの格好だった―階下へ降りた。通りに面した窓のガラスが割れていた。大きな石か何かでも飛んできたのだろう。
 男は無性に煙草が吸いたくなったが、生憎持ち合わせがなかった。仕方がなく、シンクの隅にある灰皿を指で掘り返し、比較的長い吸殻を見つけた。指を使っ て真っ直ぐに伸ばし、テーブルの上に置かれている、エッフェル塔の形をしたライターで火を点け、煙を吸い込んだ。幸か不幸か、味は新品の煙草と大して変わ らないように思えた。
 ガラスの割れた窓から外を見た男は、ゆっくりとした足取りで通りを歩く、見慣れた黒スーツ姿を見つけた。足音がやけに大きく響いて聞こえた。騒がしかっ た通りが静まり返った―ごろつき共が立ち去ったらしい。
「ヘイヘイヘイ、殺し屋のお帰りだ」男は呟くと、壁に背を付けたまま、ずり落ちるようにして床にしゃがみ込んだ。膝が完全に曲がり、細身のジーンズのあち こちがきつくなった。
 ガラスが踏み躙られ、粉々に砕ける音がした。女の悲鳴が聞こえた。男は床に足を投げ出して座ると、目を閉じて、両手で耳を塞いだ。
 次の瞬間、銃声が響いた。もう一発、そしてまた、もう一発。三度目の余韻が消えてから、男は目を開けて、両手を耳から離した。息を吐いたとき、銜えてい た煙草が口から落ちた。外で溜息のような音がした後、濡れた咳の音が聞こえた。血を吐く音だ―男は経験からそう思った。
 足音が去っていき、通りは静かになった。だが、男は足音の主が彼の家にやってくるのを知っていた。
 しばらくすると、玄関のほうで物音がした。ドアを開けて閉める音、そして鍵をかける音。靴を脱いで柔らかくなった足音が、男のいる方へとやってきた。
「このうるさい通りに、こんな静かなときがあるなんて」男はジーンズの裾を指で伸ばしながら言った。「マニー・イン・ブラック、俺は夢にも思っちゃいな かったぜ」彼は相手の返事を待ったが、沈黙に気づき、慌てて訂正した―この呼び名は気に入られていない。「悪かった、マニー、エマヌエル。忘れてたぜ、 すっかり忘れてたんだ」
 男―殺し屋のエマヌエルは小さく息を吐いた後、「起きていたのか」と言った。彼は男よりもはるかに背が高い大男で、しかもきざにすら見える端整な顔立ち のフランス人だったが、祖国の土を自らの足で踏んだことがなかった。黒く染められた頭髪の陰になって表情は分からなかったが、高い鼻に月光が当たってい た。彼は机の脚に背を預けるようにして、男と向き合って床に座った。「静かだな」
「そりゃマニー、殺し屋が仕事を終えたからさ」男はエマヌエルの開いたシャツの胸元を見ながら言った。プラチナ・ブロンドの体毛の上で、首から鎖で下げら れたエッフェル塔が鈍く光っていた。彼はこの殺し屋がエッフェル塔を愛する理由を知らなかったが、大方自分のアイデンティティを見出そうとしているのだろ うと決め付けていた。祖国を知らない、流浪のフランス人―それが彼の考える殺し屋、エマヌエルだった。しばらくして、男は不意に笑った。
「何が可笑しいんだ?」エマヌエルが問うた。人に尋ねるとき、声のトーンが高くなる。「俺が何か可笑しいことをしたか?」
 男は答える代わりに、再度笑った。真夜中に二人の男が、椅子のある部屋にいるにも関わらず、床に座って向き合っている。一人は黒スーツに身を包んでいる が、もう一人はジーンズしか身に着けていない。この状況が可笑しかったのだ。

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