11. Off-duty


「お巡りさん、おはよう」
 フィッツィは道端から聞こえた少女の声に足を止めた。今日は非番なので、制服を着ていない。それでも少女の声は彼を『お巡りさん』と呼んだ。
「おはよう」
「お巡りさん、この前はありがとう」
「ああ、お嬢ちゃんは―」フィッツィは思わず微笑んだ。この浮浪者の身なりをした子は、あの忌々しいアンディ・ジョーンズに絡まれていた少女だ。
「そう。この前・・・ね」
「よく俺の顔を覚えてたんだね」
「だって、助けてくれたんだもの。それに・・・ハンサムだしね」少女は顔を赤らめて笑った。
「その後は大丈夫かな?」
「平気。アンディの奴は、白人には酷いことしないから」
 フィッツィは無言で頷いた。今時にも人種差別主義者がいるとは実に腹立たしいことだ。
「それに、アンディは今、女の人を・・・」
「おうい、エミリー」路地裏から出てきた、トレンチコートにハンチング姿の薄汚れた男が言った。「あんまりお兄ちゃんを困らせるな」
「ラリーおじさん!」少女が顔を輝かせた。「そこにいたんだ」
「また話を聞かせてもらいますよ」フィッツィはラリーと呼ばれた男に笑いかけた。「仕事の時に」
「金がかかるぞ」ラリーが言った。「俺は情報屋だから・・・ま、それじゃあ仕事の時にな」
「そうですね。それじゃあ」フィッツィは少女を見下ろした。「それじゃあまた会おう、エミリー」
「またね、お巡りさん!」
 二人と別れた後、フィッツィはバー『ラ・エスペランサ』へと足を運んだ。そのバーを経営しているパコは、彼の友人だ。

「フィッツィ!」
 フィッツィがドアを開けるなり、パコのくぐもった声がした。「やあ、今日は朝からか・・・入りなよ、今バーは休みだけど」
「ああ、言われなくても入る」フィッツィは傍のテーブルで酔い潰れている男を尻目にカウンター席に座り、改めて友人を見やった。「何だ、朝飯中か。悪かっ たな」
「いや、いいけどさ」頬張ったサンドイッチをミネラルウォーターで流し込んだパコは、入り口付近の席で酔い潰れている男に向かって叫んだ。「おい、お客さ ん!何か食いな!あんた、一晩中酒しか飲んでないんだからさ」
「要らんぜ、マスター」男が呻いた。「もうすぐかみさんが連れ戻しにくるさ」
 フィッツィはけらけらと笑う男に眉を顰めた。「パコ」
「ん、何だい」
「あいつを締め出さないのか?」
「そんなの、外の連中が迷惑するだろ」パコは肩を竦めるとタバコに火を点け、深々と煙を吸い込んだ。
 フィッツィも煙草を取り出して咥えた。待ち合わせたようにパコがライターで火を点けてくれた。
 二人がしばらくタバコを吸っていると、乱暴にドアを叩く音がした。
「フィッツィ、開けてやって」パコがタバコを灰皿の縁に乗せた。「あいつのかみさんだ」
 フィッツィはドアを開けた。立っていたのは、恰幅の良い中年の女だった。
「ああ、あんた!やっぱりね」女は中に入るなり男の耳を引っ張りながら言った。「ここにくる途中で酒の匂いをぷんぷんさせた別嬪さんとすれ違って、まさか とは思ったんだけど」パコに目を遣って苦笑した。「違ってたね。まったく、酒が恋人になっちまったんだから!マスター、あんた若いのに・・・こんな奴の相 手はさぞかし疲れるだろうね?」
「そんなことないよ、奥さん」パコはカウンターに頬杖を突きながら、屈託なく笑った。「ぼくは若いから、ちょっとやそっと位寝なくたって平気さ」
「途中まで運ぶのを手伝いますか?」フィッツィは女に尋ねた。
「心配ないよ、兄ちゃん」女が笑った。「こんなやせっぽっちを、どうやって二人で運ぶんだい?」
 しばらくすると、店内は二人だけになった。
 パコがフィッツィを見やり、大袈裟に顔を顰めた。「咥えタバコはよしなって言ってるだろ、フィッツィ。顔が歪んぢまうから」
 咥えタバコは昔からの癖なのだが、パコはその癖が気に入らないらしい―彼のように指で挟んだタバコを振り回しながら仕事をするよりはましだと、フィッ ツィは思っているのだが。
「女が嫌がるよ。あんた、折角いい顔してるのにさ。タバコを咥えると、凄く神経質に見えちまうんだよ」
 フィッツィは適当に頷き、外を見やった。ちょうど肩にストールを巻きつけた女が女が足早に歩いていくところだった。その横顔には、どこか見覚えがあっ た。
「ああ、アシーナって言うんだ。時々うちに飲みにくるよ」パコが言った。「可哀相に、ギャングに付き纏われちゃってさ。美人なのも考え物だよな」
「ここも物騒になったな」フィッツィはタバコの端を噛んだ。「昼間でもギャングがうろついてるなんて」
「ここはまだ、そんなにダーティじゃないだろ」パコはタバコを灰皿に押し付けた。「さて・・・と。ぼくが居眠りする間の店番よろしく。多分誰もこないけ ど」
「そうだな。寝たほうがいい、パコ」
「そうするさ。・・・所で、お袋さんの調子は?」
「妹が警察官になるのを止めた途端に直ったよ」
「そいつはよかったな。だって彼女、あんたより随分若いしね」
「ああ」フィッツィは吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。それはいつもにも増して、苦かった。「・・・ああ」

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