32. The last cigarette


 ガッデスは、朝から数えて十数本目以上になるタバコに火を点けた。チェーンスモーカーのパコに数箱分けてもらったものだ。
 下では話し声が聞こえ、次いでパコの笑い声が聞こえた。この時間だ、買出しに出かけていたキットが戻ってきたのだろう。やがて二つの足音が近づいてき た。
「アシーナ」最初に姿を見せたのはキットで、体を屈めるようにしてドアをくぐった。「その後変わりは?」
「特に。あんたは元気そうね」
「アシーナ、替えの服を持ってきたよ。キットのシャツだけど」後から入ってきたパコが、紙袋をベッドに置いた。「そうそう、昨日来た警官―フィッツィって 名前で、ぼくの友達なんだけど―が、あんたらの事を探してたよ」
「あんたら?」ガッデスは眉を顰めてタバコを灰皿に置いた。「あたしはともかく・・・キットが?」
「さあ。よく分かんないけど、ギャングって言ってたからさ。怪しまれると思って、余計なことは言わなかったけれど」
「自分はもうギャングじゃない。・・・今思えば、元からギャングじゃなかったのかもしれない」キットが半分目を閉じて言った。「それに、捕まるようなこと はしていない。殺しだって・・・」
「そいつは驚いた」パコがタバコを挟んだ指を振って言った。「とにかく、あまり目立つなよな。友達を騙し続けるってのは楽じゃないんだぜ」
 ガッデスは窓の外を見ながら考え込んでいた―『ラ・エスペランサ』にはあまり長居できない。酒場である以上は、人の出入りが盛んだからだ。パコにも精神 的な負担をかける事になる。一度は好意に甘えることも考えたが、唐突に蘇った警官だった頃の正義感が邪魔をした。あの頃と今では、人を撃ち殺した状況だっ て違うのだ。
 アンディ・ジョーンズ・・・。彼女は心の中で自分の運命を変えてしまった男の名を呟いた。あんたさえいなければ、あたしはこんな事にはならなかったの に。
「タバコは足りてるかい?」
 パコの声に、ガッデスは我に返った。人の良さそうな、大きくて黒い瞳が見ていた。
「いいの、マスター。もう充分。これで最後にするつもりだから」彼女はそう言ってから笑みを浮かべた。
 不意に下から呼び声がした。「マスター、マスター!いねえのかよ!」
「今行くけど、何だい」パコが下に向かって叫んだ。
「俺、ジョニーだよ。なあマスター、まだ女匿ってたりする?」
「いないと言って」ガッデスは眉を顰めたパコに、小声で言った。「いいから、もう出てったって言って」
「今朝出てった所だよ、ジョニー」パコは階段を下りながら言った。「ラリーにそう伝えときな」
 突然の来訪者を見送った後、再び戻ってきたパコの表情は硬かった。「アシーナ、これはどういう事だい?」
「ねえ、さっき言った通りなの。マスター」ガッデスは深呼吸をして言った。「もう苦しくなったの。・・・好意に甘えっぱなしってわけにもいかないからね」
「どの道ぼくには止められっこないのさ。・・・でも、淋しくなるよ!」表情を歪めたパコが、ガッデスの両頬に熱烈なキスをした。「ラリーの所に行ってみな よ。あんたの事を訊き回ってる位だから、きっと心配してるんだ」
 ガッデスは頷いてからキットの方を向き、ベッドに置いてあった紙袋を手渡した。「そういうわけだから、もういらないの。・・・ごめんね」
 キットが無言で受け取ったのを見て、パコが泣きそうな顔をした。「アシーナ、これからどうするつもりだい?」
「さあね。でも、いずれ自首するわ。あのね、今まで黙ってたけど、あたし・・・」
「アンディを殺したんだろ。薄々気付いてたよ」パコが泣き笑いをしながら言った。
 キットは困ったように薄笑いを浮かべた。「自分は・・・今、知った」
「ねえ、そういうわけだから。もう行くわ」ガッデスは素早く身を引いた。「これからあたしとあんた達は他人よ。あたしがどうなっても関係ないし、気にもし ないで」
 しばらくして、『ラ・エスペランサ』を後にしたガッデスは、短くなったタバコを片手に、数日振りにコンクリートの地面を歩いていた。やがて、指先に熱さ を感じた。タバコが殆ど灰になっていた。
 地面にタバコを落として歩き去るとき、彼女はしばし感傷的な思いに囚われた。

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