07. A gang and alcohol


 ガッデスがバー『ラ・エスペランサ』に入ったとき、カウンターはいつものように空席が目立った。店内には静かな音楽が流れ、落ち着いた空気で満たされて いる。
 マスターのパコが彼女にぎょろりとした目を向けた。「やあ、いらっしゃい」
「今晩は、マスター。そっち行っても邪魔じゃない?」
「いいや、むしろ嬉しいよ。座りな」
「ありがと、マスター」ガッデスはカウンターに腰掛けた。「アルコール頂戴」
「アルコールって言っても、沢山あるんだけどさ」
「マスターのおすすめを」
「分かったよ、アシーナ」
 パコの持ってきたソーダ水割りのリキュールを飲んでいるうちに、ガッデスは体の震えが治まってきたのを感じた。ここが落ち着く場所だからに違いない。こ のマスターは彼女よりも若いが、経験豊富な男だ。夫 のハリーが死んで以来、彼女のことを本名で呼ぶのは彼ぐらいだった。「マスター、ここにいると落ち着くわ」彼女は本心からそう言った。
「そりゃそうだ」火の点いていないタバコをくわえたパコが笑った。笑うと表情が幼くなる。「タバコは駄目?」
「ううん、別に」
「じゃあ吸うよ」
 火を点けたタバコを挟んだ指先で額にかかった短い前髪を弄んでいるパコを、ガッデスはぼんやりと眺めていた。「ねえマスター、さっきの話、本当なんだか ら」彼女は呟いた。「落ち着くわ・・・」
「それはね、ぼくがいるからじゃないよ」パコが何気ない調子で言った。「アルコールがあるからさ、違う?」
「嫌だ、マスター」ガッデスは笑い声を上げたが、すぐに黙り込んだ。
「ね、違わないな」
「・・・あたしに夫のことを忘れさせてくれるのは、アルコールだけなんだよ」
「似たようなこと言って酒に溺れていった奴を、ぼくは何人も見てるんだけどさ」パコがカウンターの上に塩漬けオリーヴの皿を乗せた。「アシーナ、あんたも 間違いなくその一人になるね」
「そうよ、分かってる!ねえ・・・努力してるけど・・・。生活保護だって受けてんのに!昔はこれでも警官だったんだから・・・信じられる?あんたが店を開 く前はね、マスター。ここら辺のパトロールをしてたのよ、あたしは」
 何気なく外を見たガッデスは、一番会いたくない男―アンディの姿を認めた。「マスター」彼女は立ち上がった。アンディがやって来る。「匿って」
 パコはすぐに、ガッデスが空にしたグラスをカウンターから下げた。「横から入りな」
「ありがと、マスター。恩に着るわ」
 カウンターに入るガッデスの姿を見た客に向かって、パコは人差し指を唇の前に当てて見せた。「今のは内緒だよ、いつもどおりに頼む。・・・ギャングがく る」
 それから一分も経たないうちに、アンディが店内に入ってきた。
 男の荒い息遣いに、カウンターの下でガッデスは身を強張らせた。彼女の体のすぐ傍にあるパコの足にも、緊張が走ったのが見て取れた。
 アンディは酷く酔っているらしく、千鳥足でカウンターの方にやってくると、回らない舌で何か言った。
「いらっしゃい」パコが水をグラスに入れて渡した。
 次の瞬間、その水がカウンターの内側にいるガッデスの所まで飛んできた。
「不法移民の入れた酒なんざ飲めるかよ」アンディの大声がした。パコの顔にグラスの中身をぶちまけたらしい。「ガッデスはどこだ?」彼はグラスをカウン ターに叩き付けるようにして置き、怒鳴った。「ここに入るのを見た奴がいるんだぜ」
「知らないね、そんな女は」パコは健気に耐えていたが、カウンターの下に隠れた拳が震えていた。
「このヒスパニックの嘘つき野郎が!」アンディがカウンターを叩いた。「常連客を知らないってのか!」
 ガッデスは震えながらカウンターの下でパコの手首をつかんでいた。この若者が相手を殴り飛ばさないか案じていたのだ。
 短い沈黙の後、パコが抑えた声で言った。「お客さん、あんた場違いだ。おまけに他のお客さんの邪魔してる。ガッデスは帰った。さっさと出て行きな。じゃ ないとお巡りを呼ぶ」
「この地区の担当は黒人だ。俺は黒人なんざ相手にしないぜ」
「じゃあ白人のお巡りを呼ぶさ」
 ガッデスは安堵して、パコの手首をつかんでいた手を離した。この若者は、ことを荒立たせずに済ませる方法を知っている。
 アンディが肩を怒らせて出て行った後、彼女はようやく立ち上がった。パコの方を見ると、髪から水を滴らせて突っ立っていた。「ごめんね、迷惑かけて」彼 女はハンドバッグからハンカチを探り出し、パコに渡した。
 彼は無言でハンカチを受け取ると、それで顔を拭った。
 ガッデスは客の方に向かって言った。「ごめんね、邪魔したね」
「困ったときはお互い様だぜ、姐さん」出入り口付近の席から声がした。
「アシーナ」ハンカチをカウンターの上に置いたパコが静かに言った。「あんたももう帰ったほうがいい・・・もう少し待ってから」
「そうするね。おやすみ、マスター」
「ギャングとアルコール」パコは誰にともなく呟いた。「この世の中で最悪な組合せに入るね」

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