El criado y la mujer



V.

 一度道を踏み外し、迷ってしまえば、さら に奥へと迷い込むのは簡単だが、そう簡単には元の道に戻ることができなくなる。
 札束をポケットに捻じ込み、それをシャツで隠したとき、アルバロはかつての己の姿を思い出そうとしていた。一体どうして、今のおれはこんな仕事を?
 取引相手の女は、マヌエラの知り合いで、マヌエラと同じ位よい身なりをしていた。ブロンドの髪をポニーテールにしているのもあって、マッチ棒のように体 が細く見えた。
 女は一目で、アルバロがかつてのフラメンコ・ダンサーだと気付いて、久し振りに見たわ、と言った。レーラのお守りをしているなんて、思いもよらなかっ た。
「セニョーラ(*6)、おれだって、ダンサーをしていた頃は、そんなこと…」言いよどんだアルバロを見て、女が笑い、取引はそれで終わった。
 マヌエラが、金を振り込むように、と指定した銀行は、女の家から目と鼻の先にあった。この時間帯だと、人が多い。多少怪しい人間がいても、気付かれやし ない。
 銀行の中に入ったアルバロは、比較的人の少ない列を選んで並び、札束をポケットから取り出した。長い順番待ちに、せっかちな客は、早くも預ける金を取り 出している。
 おれは目立たない―一瞬、安堵感を覚えたものの、その次の瞬間、出入り口を見た彼は凍りついた。見張りの警官が二人、ドアの両脇を固めている。
「ミエルダ」
 受付嬢が大きな声で叫んだ。「ドン・カブレ、お電話です。ドン・アルバロ・カブレ」
「おれだ、少し待って。今そちらに行くよ」アルバロは、二人の警官の視線を感じながら叫んだ。途端に、冷や汗が噴出してきた。落ち着け・・・心の中で自分 に語 りかける。落ち着け、普通に振舞っていれば、どうして奴らがおれを怪しむんだ?
 受付嬢が、窓口の横の木戸を開け、笑顔で手招きした。「こちらですわ、ドン・カブレ」
「グラシアス(*7)、セニョリータ」アルバロは努めて優しい声で言うと、他の客に背を向けて電話を取り、声を低く落とした。「おれだよ。今、変わった」
『こんにちは、アル。私・・・マヌエラよ』
「セニョリータ、一体どうして、ここにかけたの?怪しまれでもしたら、大変じゃないか。おれは今、ちょうど金を振り込もうと、長い列に並んでいたところな んだよ」
『あら』マヌエラが、まるで少女のような声を上げた。『仕事が早いのね、アル』
「・・・レーラ」アルバロは溜息を吐いた。「とどのつまり、きみは確認をしたかっただけだね?」
『そうよ。仕事を、確認したかったの。だって・・・』
「じゃあ、おれはまた列に並び直してこなくちゃならない。レーラ、きみの電話に出たからだ」視線を外に向けると、警官のうちの一人、若い方と目が合った。
 申し分のない男だ。アルバロは思った。そばかすの浮いたオリーヴ色の肌に、猛禽を思わせる鷲鼻。鋭い印象を、甘い目元が和らげている。女のように腰がく びれて見えるほど、上半身の筋肉が発達している。今にも居眠りを始めそうな、老いぼれ警官ならともかく、この牡牛のような体をした男を相手に、自分が敵う ことはまずないだろう。
「くそ。お陰でトロ・マッチョ(*8)みたいな警官に、目を付けられてしまったよ」
『アル、早い仕事を楽しみにしているわ』マヌエラは、アルバロの言い分を聞かなかったかのような口調で言った。『切るわ』

 トロ・マッチョこと、ラモン・アルベルダは、電話を使っている男を、じっと見ていた。ラモンには、この少し体のゆるみ始めた壮年の男が、どこかで見たこ と のあるような人間に思えてきた。
「ケチェ、ケチェ」ラモンは、横で今にも舟を漕ぎ始めようとしている、老警官の名を呼んだ。「あいつ、何処かで見たことないか」
「いやあ」老警官、セスク・ケチェは目も開けずに答えた。「どっかで拾った、迷子にでも似てるんだろ」
「いや、違うよ。どこかで見たよ・・・どこだっけな」
「ノワヨー酒(*9)が飲みてえなあ」唐突に、セスクが言った。「うんざりするほど砂糖入れて、ぐいっとやりてえなあ」
 男が電話を受付嬢に渡し、木戸を開けて出てくると、そのまま列の一番後ろに並んだ。
「あの受付嬢やってる、フーリアは可愛いよなあ。もういくつになったんだか」
 小突かれたので、ラモンははっとしてこの老警官を見た。「ケチェ?」
 セスク・ケチェの目には、不敵な光が宿っていた。仕事の表情だ。
「アルバロ・”ガラン(*10)”。奴が、フラメンコ・ダンサーになりたての頃の通り名だ」
「何だ、引退したダンサーか」ラモンは鼻を鳴らした。
「ラモン、だからお前さんは甘い」セスクがあくびをして言った。「売人か、運び屋だろうなあ、あいつは」
 金を振り込み終えた男が、周囲を見回しながら、出入り口、つまり二人の警官の方へやってきた。後ろポケットのふくらみが消えている。冷や汗をかいた横顔 は、警戒心を顕にしていた。
 ラモンは、何気ない風を装って、男に笑いかけた。「セニョール、大丈夫?」
 男は過剰とも取れるほどの反応を示し、三度「いや」と言った。「ああ、大丈夫。少し気分が悪いだけだよ、心配しないで」
「ラモン」足音を背中で感じ取った後、セスクはラモン・アルベルダに呼びかけた。「顔は覚えとるな。じゃなかったら、お前さんは正真正銘の、トロだ」
「もちろん覚えたよ、ケチェ」ラモンが組んだ腕に力を入れると、筋肉が盛り上がり、制服のボタンの一つ二つ、簡単に弾け飛びそうだった。「これから、追っ かけるんだろ?楽しみだな…体力勝負はこのトロ・マッチョに任せておくれ」
「追っかけた所で、撒かれちまうだろうなあ」セスクが言った。「わしが一緒だってことを、忘れんじゃねえぞ」