El criado y la mujer



W.

 イタリアン・レストランの前を駆け抜け、 通りの角を曲がってから、アルバロはようやく走るのをやめた。
「おお、危なかった」アルバロは一人呟いた。「気付かれなかったかな」
 先程、若い警官に声をかけられたときは、職務質問されるのか、と気が気でなかった。最初は早足で歩き、警官達から姿が見えなくなってからは、全力で走っ た。
 アルバロは、元来踊るのは好きだったが、走ることは、そう得意ではなかった。リズムに乗って、かつ、速く走るのは難しい。小さい頃、向かいの家に住んで いた、頑固者で通っていたサンティアゴの、一人娘とは違う。あのセニョリータは、まるで踊っているかのように走っていた。
 通りは人気が少ない。アルバロは、すれ違う人々に軽く会釈をしながら、早足で歩いた。
 向かいから歩いてきた、イタリアン・レストランのシェフ、フェルナンド・ガルシアが、タバコを咥えたまま手を上げた。「カブレ。お前、警官のお友達がい るのか?」
「よしてくれよ」
「何やらかしたんだ、後ろから来てるぞ」
 フェルナンドは、アルバロがフラメンコ・ダンサーをやっていた頃からの知り合いだ。生まれも育ちもスペインではないが、親と一緒に移住してきた。
「お前のファンか?」フェルナンドは、唇を窄めて煙を吸い込んだ。
「おれのファンだったら、とっくにサインでもしているよ」
「そうか、じゃあ、引き止めちゃ悪かったな。とっとと行きな」
「ありがとう、フェルナンド」
 少し歩くと、ペンキを塗ったばかりの、白い家のドアの前で、女が手鏡を覗いていた。
 アルバロは、その女が、フェルナンド・ガルシアの恋人だと知っていたので、手鏡を覗きながら、声をかけた。
「お久し振りだね、アナ。さっき、ガルシアに会ったよ」
「まあ」
「右耳の後ろにも、ペンキが付いているよ」
「グラシアス、アルバロ」
 アナの手鏡には、先程の、二人の警官が映っていた。
「人気があるって、大変だわね」アナは事態を察知したようだった。「セスク・ケチェじゃないの。一度追い回されたら大変よ。しぶとい奴なんだから。フェル ナンドが、競りでちょっと悪いことをしたときも、大変だったのよ。気をつけて」
「ミエルダ、何てこった。いいことを教えてくれたよ、アナ。それじゃあ、またね」
 セスク・ケチェ。足を進めながら、アルバロは、老警官の人相を、頭の中に焼き付けた―おれは、とんでもない奴にしっぽを捕まれたらしい。それから、あの トロは、どこのどいつだ?
 何気なく振り返った瞬間、後をつけてきていた、若い警官が走り出したので、アルバロは、素早い身のこなしで、脇道に駆け込んだ。
「シニョール(*11)よ、お待ちくだされ」セスク・ケチェの声が、後方で聞こえた。「シニョール!」
 しばらく走っていると、やがて、老警官の声は聞こえなくなった。
 アルバロは、後ろを見た。若い、牡牛のような体をした警官が、迫ってくる。トレロ(*12)にでもなった気分だ。アルバロは毒づいた。息が上がってく る。
 奥の小路に入ると見せかけて、アルバロは、あふれた生ゴミのバケツの陰に身を隠した。シャツが汚れるのも構わずに、ぴったりと体を壁に寄せる。
「ああ、ケチェ!」若い警官の叫び声が聞こえた。「やっぱり駄目だった」
「だから言ったじゃねえか、ラモン。お前さんでも無理なんだよなあ」
ラモン・・・。アルバロは、マヌエラの話を思い出した。ラモン・アルベルダ。以前、マヌエラが、ほんのわずかな時間だけ、熱を上げていたが、すぐに終わっ た。 どうして冷めてしまったの、とアルバロが聞くと、マヌエラはこう答えた。「ハンサムだけど、とんでもない能無しなの」
 辺りが静かになった。そろそろ、シエスタの時間だろうか。立ち上がり、通りに出たアルバロは、家に帰るために歩き出した。
「カブレ、有名人は大変だな」フェルナンドが手を振った。アナと一緒で、手にはジュースの入ったグラスを持っている。
「全くだよ、フェルナンド」アルバロは、シャツに付いたゴミを落としながら答えた。「君は有名になるなよ」
 辺りに注意しながら階段を上がり、自分の部屋にたどり着いたとき、アルバロは、部屋の鍵が開いていることに気が付いた。
「誰か」部屋に足を踏み入れ、鍵を後ろ手に閉めた。ややあってから、アルバロは窓を開け放った―何か揮発性の臭いがする。「誰が、いるのかな」
返事の変わりに、ソファから垂れた、長い黒髪が揺れた。
「何だ・・・」アルバロは安堵の溜息を吐いた。「セニョリータ、どうしてここにいるの。それに、この臭いは何?」
マヌエラがゆっくりと振り向いた。手に持っている、小さな筆を見ると、どうやらここで、エナメルを塗っていたらしい。
「お帰りなさい」マヌエラが、エナメルを塗り終えた左手を振った―血のように赤い爪だった。
「ねえ、レーラ」アルバロは、シャツを脱ぎ捨てると、ベッドに倒れ込んだ。「主人のいない家に入るってのは、ちょっと無粋じゃないかな」
 猫のように忍び足で、マヌエラが、ベッドの傍にやってきた。清涼感のある、パフュームの匂いがした。
「お帰りなさい、アル」
 ベッドが、マヌエラの体重が加わって軋んだ。
「お帰りなさい」
 マヌエラの声は、眠りに落ちようとしているアルバロの耳に、心地よく響いた。