El criado y la mujer



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 心臓が、まるで曲のクライマックスで打ち 鳴らされるドラムのように、激しく鳴っている。吐き気のないことが、せめてもの救いだった。取引に失敗した上に、捕まってしまったのでは、元も子もない。
 あの売春婦は、きっと無事だろう。問題は自分だ。
 倉庫に駆け込んだアルバロは、息を喘がせたが、慌てて自分の口を手で覆った―音があまりにも大きく響いたのだ。たちまち、後悔の念が押し寄せてきた。倉 庫の出入り口は、一箇所だけだった。もし警官達が入ってきたら、逃げ場はない。
「おうい、ラモン。お前さんの方はどうだ?」セスク・ケチェの声がした。「わしは、倉庫に入ってみるぞ」
 言い終わらないうちに足音が聞こえ、アルバロは、慌てて木箱に立てかけてあった廃材をつかんだ。適度な長さがあり、金属製だった。昔、これと似たような 鉄パイプを使って、サンティアゴの一人娘に絡んでいたごろつきの、足を折ったことがある。老いぼれたセスクの骨なら、容易く折れるだろう。
「駄目だよ、ケチェ」ラモンの声が近づいてきた。「一人じゃ危ないよ」
「そう思っとるんじゃったら、早く来んかい!このトロ・マッチョが!」
 アルバロは、廃材を持ち上げると、セスクが一刻も早くこちらにやってくるように祈った。このままでは、ラモンが来てしまう。あのトロ・マッチョとは、最 低でも一対一で戦わなければ。
 セスクが、アルバロの姿を見つけ、低く囁いた。「見つけたぞ」
「おれも、丁度見つけたところだ」。”スシオ(*14)”・ケチェ」アルバロは言うなり、廃材でセスクの足を払った。金属と骨のぶつかる、鈍い音がした。 セスクが呻き声を上げて倒れた。左足が折れ曲がっている。
「ケチェ?」ラモンが倉庫の中に入ってきた。
 アルバロは、素早く物陰に身を隠すと、廃材を構えたが、すぐに下ろした―予想以上に重かった。
「ケチェ!大丈夫かい?・・・ああ、大変だ。骨が折れてるよ」
「そんなこと言っとる暇があったらな、ラモン」セスクが荒い息の中で言った。「とっとと、奴を捕まえんかい!」
 アルバロは、物陰から、廃材をラモンの首元に突きつけた。首を折るつもりだったが、思い留まった。ここで殺人までも犯すわけにはいかない。
 とがった廃材の先端が首を擦り、ラモンが、小さな悲鳴を上げて後ずさった。
「きみが、トロ・マッチョかい?・・・このマリコン(*15)め!」アルバロは鼻で笑った。見掛け倒しのこの男に、マヌエラが、一時的とは言え熱を上げて いたことが、許し難かった。「おいで、おれはここだ」
 文字通り、ラモンが突進してきたので、すかさずアルバロは廃材を振った。あたった感触はあったが、思った程の打撃を与えられなかったようだ。
 次の瞬間、左の頬を殴られ、アルバロは壁に押し付けられた。そのまま襟をつかまれて、体が持ち上がる。足が地面から浮き上がる前に、アルバロは、辛うじ てラモンの顔に血の混じった唾を吐きかけ、その腹を強く蹴った。
 ラモンが後ずさった。横目でセスクを見ている。
 出入り口とラモンとの間にできた隙間を、アルバロは見逃さなかった。セスクに向かって廃材を投げつけると、倉庫の外に飛び出した。
「ケチェ!」ラモンの叫び声が聞こえ、次いで老警官がなにやら言ったようだった。
 アルバロは、人通りの少ない道を選んで走った。たちまち、後ろで足音が聞こえたが、引き離そうと思った途端、咳が出た。ミエルダ!アルバロは、心の中で 己の不運を呪った。
 次の瞬間、激しい衝撃と共に、アルバロは、地面に倒れていた。呻き声を上げるよりも先に、手錠の音が耳に入った。
「今度こそ逃がさないよ、セニョール」ラモンがアルバロを押さえつけながら、手錠をかけようとしていた。
 その一瞬の隙を突いて、アルバロは体を返し、両手の自由を取り戻した。
 ラモンが、ほぼ反射的に、アルバロの腹を強く殴った。
「・・・・・・!」アルバロは声を上げたが、音にならなかった。吐き気と共に、飲み込んだ袋がせり上がってきたが、激しく咳き込むと、喉が粉っぽくなった ―袋を破裂させてしまったに違いない。
「セニョール、大人しくなった」ラモンは満足げに呟くと、アルバロの腕をつかみ、倉庫に向かって引きずり始めた。
 引きずられているにもかかわらず、アルバロは、抗うことすらできずに、体を強張らせていた。体が火照りだし、肌を冷や汗が伝った。急性薬物中毒という言 葉が、頭の中をよぎった。今度は体が冷たくなり始めた。深呼吸をしたが、喘ぎにすらならず、浅い息をすることしかできなかった。
 意識が揺らめき始め、瞬く間に視界が暗くなった。

 セスクは激痛に耐えた。おかしな方向に曲がった足を直すと、少し痛みが和らいだような気がした。
「ケチェ!」ラモンの呼び声がした。「ねえ、捕まえたよ!」
 声のしたほうを見やると、丁度ラモンが、アルバロ・”ガラン”の体を引きずって、こちらにやってくる所だった。力強い腕に引きずられている、かつてのフ ラメンコ・ダンサーの体は、ぐったりとしていて、抗う様子はなかった。
「ラモン」セスクは、上体だけ起こして言った。「そいつ、やけに大人しいな」
「腹を殴っただけだよ」
「ホデル(*16)!ラモン、手加減しとったか?」
「したよ。でもこの様さ」
 セスクは、アルバロの傍に這って行った。アルバロの体を裏返すと、白目を剥いて、体を痙攣させていた。口の端から零れている白い粉を見て、老警官は、全 てを悟った。
「ひっ・・・」アルバロを見たラモンが後ずさった。「何だこれ」
「トント(*17)!何突っ立っとるんだ」年若い相棒を指差し、セスクは怒鳴った。「今すぐ吐かせろ、お前さん。それからまずは、”ガラン”の為に救急車 じゃ!」