10.ブラック・コーヒー


 夜遅くになって、男はエマヌエルの部屋に行った。
 殺し屋は静かな寝息を立てて眠っていた。毛布から出た裸の左腕に包帯はなく、瘡蓋になった傷が見えていた。やがて半分眠りから覚めたのか、目を閉じたま ま男の名を呼び、「いるのか?」と囁くような声で言った。まだ眠っているようだった。
 男は無言で部屋のドアを閉めると、階下に下り、スニーカーを履いて外に出た。深夜の空気は冷たく、歩き始めてすぐに彼は上に何も着てこなかったことを悔 やんだ。
 通りは相変わらず騒々しかった。男は騒音の中を潜り抜け、足早に倉庫へと向かったが、その手前で立ち止まった。コンテナを運び出している人影が見えたか らだ。耳をすませると、彼の判らない言葉を話しているのが聞こえた。人影は全部で三つ、ひっきりなしに何か話していた。男は物陰から様子を除き見た。アジ ア系の顔立ちをした男たちが、ちょうど見覚えのあるコンテナをトラックに積んでいるところだった。呟き声の間にタール、と言う単語が聞こえた。
 男は鳥肌を立てながら地面に座った。やがて眠気が押し寄せてきた。コンテナを積んだトラックが音を立てて走り去ったが、そのとき既に彼は眠っていた。

 男が目を覚ましたとき、日は高かった。港の方から迷い込んできたらしい、鴎の鳴き声が聞こえた。
 彼は体を震わせながら立ち上がった。体は芯まで冷え切っていた。倉庫の方に行きと、ドアは既に閉まり、コンテナは運び去られた後だった。そこには紙袋に 入ったバケットを片手に持ち、セーターを着ている大柄な男の姿があった。短く刈ったプラチナ・ブロンドに見覚えがなかったが、彼はその男に見覚えがあっ た。
「マニー?」男は半ば疑いながら声をかけた。「・・・マニー?」
 振り返った殺し屋が、わずかに唇を開いた―エマヌエルだった。漆黒に染めていた髪は刈られ、本来のプラチナ・ブロンドになっていた。彼は片方の眉を上げ て、「どうだった」と尋ねた。
「朝早く・・・いや、真夜中頃だったぜ」男は両手を擦り合わせながら言った。「その頭、どうしたんだ?」
「見ての通りだ」エマヌエルは頭に手をやった。髪が短くなったせいで、高い鼻ばかりが目立っていたが、違和感はなかった。
 男は地面に紙が落ちているのに気がつき、拾い上げた。しわくちゃになったビラだった。サングラスに黒スーツ姿の男が二人、銀色の長い銃を持っている。
「『レゾム・アン・ノワール』・・・?」男はティーンエイジャーの頃の記憶を引っ張り出しながら読み上げた。「ヘイ!見ろよ、マニー。フランス版『メン・ イン・ブラック』」ややあってから、彼は不意に気付いて言った。「じゃあ、あんたはマニー・アン・ノワールってわけだ?」
「マニー・アン・ノワール」エマヌエルが繰り返した。「その通りだが、残念だ。俺はしばらく人を殺す予定はない」
「名前だけもらっときゃいいんだぜ」男は大きなくしゃみをした。「さっさと戻ろうぜ。熱いシャワーが浴びたい」
「通りは日が差して暖かいぞ」
「嫌だね、裏道通るほうが近い」男はビラを丸めて、ジーンズのポケットに押し込んだ。
「タールがついていたな。家で捨てろ」エマヌエルがそう言って歩き出した。

 男がシャワーを浴びて階下に下りると、室内にはコーヒーの匂いが立ち込めていた。エマヌエルは買ってきたバケットをスライスしているところだった。「早 い昼食だ。お前は今日、何も食べていないんだろう」
「何か暖かいのが飲みたい」男は椅子に座った。
「ダイエット・ペプシと水しか飲まないんだろう」エマヌエルが笑いながら、マグカップ―男の知らない間に買ってきたらしかった―にコーヒーを注いだ。「淹 れたてだ」
 男はマグカップを両手で持ち、熱い液体を啜った。「ブラック・コーヒーか」
「砂糖とミルクを入れると、高カロリーになる」
「俺はあんたみたいにがぶがぶ飲まねえよ」
 エマヌエルはタンブラーを片手に、窓枠にもたれかかった。「鴎がこんなところまで迷い込んでくるなんて」
「そのうち戻れるさ」男はエマヌエルの胸元に光るエッフェル塔を見ながら言った。鴎の鳴き声が遠ざかって行く。「ほら・・・戻って行くぜ、マニー・アン・ ノワール」
 エマヌエルが笑った。彼の目は机の上に向けられていた。そこにはエッフェル塔の形をしたライターと、茶封筒に入れられた拳銃があった。

The End.

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