08.乾いた風


 男はエマヌエルの左腕にある傷口を見た。確かにそう深いものではなく、酷い擦り傷か引っ掻き傷と言われても、そう思えなくはなさそうだった。
 エマヌエルはその日の朝も、眼鏡をかけて新聞を読んでいた。階下へ降りてきた男をいつものように一瞥すると、新聞を開いて示した。小さな記事―ギャング スタの死亡記事―があった。「お前の親友だ」彼は目を伏せて言った。
「ヘイ、マニー。いつからギャングスタは俺の親友になったんだ?」男は冷蔵庫からダイエット・ペプシのペットボトルを取り出して、一口飲んだ。「腕の傷、 洗ってやろうか?」
「もう乾きかけた傷を?」
 男は、目を閉じて微笑んだ殺し屋の姿をしばらく眺めていた。バスローブに身を包み、コーヒーの入ったタンブラーを片手にリラックスしている、まるで映画 のワンシーンのような姿。これで午後には人を殺しているかと思うと、一種の不快感すら覚えそうだった。
 彼はエマヌエルの腰掛けている椅子を背もたれにして、床に尻をつけた。「・・・今日だよな?」
「ああ。それ以降でも構わないが、お前が死ぬ」
「あんたにとっちゃ、どっちの契約の方が美味いんだ?」
「さあ。どちらも契約に過ぎない」エマヌエルがバスローブの袷から左腕を出し、次いで窓の外を見た。「傷が良く乾く。今日は乾燥しているな」
「俺には、いつもと同じにしか思えないぜ」男は殺し屋が傷口を消毒しているのを見上げた。傷口の周りだけ、カールしたプラチナ・ブロンドの体毛が消毒液の 茶色に染まっている。
 しばらくして、彼は窓際まで這って行った。後ろでエマヌエルの失笑が聞こえたが取り合わず、立ち上がって窓から通りを見やった。通りは相変わらず騒がし かった。ごろつき共が喧嘩しているのを、住む家のない見物人達がはやし立てている。
 腕を裸の胸の前で組み合わせたとき、彼は皮膚が乾燥しているのに気がついた。窓の外に両腕を突き出すと、乾いてざらついた風が皮膚を擦っていった。
「いや、マニー。あんたの言ったとおりだ。乾いた風が吹いてる」
「乾いた風?」
「ああ」
「ウォルト、午後はお前もくるか」
 男は、俯いたエマヌエルの頭頂部、プラチナ・ブロンドになりつつある生え際を見ながら考え込んだ。ややあってから、「あんたの邪魔にならなかったら行く ぜ」と答え、大きく伸びをした。「いや、やっぱり、あんたが嫌がっても行くぜ」
「分かった」エマヌエルが立ち上がると、顕わになった胸元に光るエッフェル塔が見えた。
「何であんたは、エッフェル塔を身に着けてるんだ?」男は煙草を一本、箱から出してくわえ、机の上にあるエッフェル塔の形をしたライターで火を点けた。
「このフォルム」殺し屋が微笑んだ。「美しいだろう?フランスの象徴だ」
「へえ!成る程な」
「平凡な答えだろう」
「いや、俺はいいと思うぜ」
 エマヌエルは答えず、階上に上がっていった。

 男はいつの間にか、自分の部屋でエマヌエルが煙草を吸うのを嫌がらなくなっていた。同時に彼の寝室に出入りするようにもなった。エマヌエルは、男が物置 代わり―と言っても、ほとんど何も置かれていなかった―にしていた部屋にマットレスを敷いて使っていた。室内には、煙草に混じって、ほのかにオーデコロン の香りがした。
 その日も男はエマヌエルの後を追って階上に上がり、彼の部屋に入った。彼はちょうどスーツに着替えているところだった。マットレスの上には、手入れされ て黒光りする拳銃が置いてあった。
「ウォルト、準備はいいのか」上着の中に入り込んだシャツの襟を立てながら、エマヌエルが言った。「ピアスはするな。肉弾戦になると辛い」
「それ位知ってるぜ、マニー。殴られて痛いことぐらい知ってるさ。・・・準備ばっちりだ」彼はひび割れた唇を舐めた。「空気が乾いて、乾いた風が吹いてる な、マニー」
「血も早く乾くだろう」サングラスをかけた殺し屋は、そう言って右手の人差し指と中指を組み合わせた。

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